私は、セックスをしたことが無い

「てく」に書け書け言われてきた童貞ネタを書こうと思う。

 

山奥ニートと性、というのも中々に興味深いテーマだ。この世俗から隔絶された空間には十数人の男しかいない。性というのは人間を語るうえで避けては通れない道である。

 

自分はその山奥ニート内でもそこそこの勢力を保つであろう童貞レギオンの一員である。

 

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何でもいいけどこの環境過酷すぎるやろ

昨日は久々の買い出しで人里へ降りることになっていた。そのためにお出かけ用の冬服を取り出したのだが――

 

なんかジットリしている。

 

冗談みたいだった。微妙に濡れている。

 

洗濯後、乾かして収納に入れてたよね。なぜ濡れている。自然に濡れたとでも。

 

まさか部屋の湿度を吸った結果がこれなのか――?

 

そりゃカビも生えるわ……。

 

氷水入れたグラスを10分放置すれば、結露で周囲がビッチャビチャになるものな。

 

こないだも、収納しておいた寝間着に袖を通したら背中が熱くなってきて即座に脱いだ。どうもかぶれたようだった。日焼けした後のようにヒリヒリしていた。たしかに私は肌弱いけども、ちゃんと収納しておいてこれかよ、と。たぶんカビの仕業なのだろうけど。

 

朝ぼらけ我を食いける霧襖                秋雷

 

いかんて……この湿度の高さはありえんて……。これ人間が住む環境なのかい?

バナシさんがまた出て行ったよ

昨日、目覚めたらすでにバナシさんは共生舎からいなくなっていた。たぶん彼の結婚関係の奴で出てったんだと思う。式するのかな。詳しい話を訊いてないからよくわからない。あの人ぜんぜん説明せずにフラッと消えちゃうから。煙か幻か。ニートの割に移動力のある人だ。

 

移動大っ嫌いな私は出来る限り移動をしたくない。電車もバスも車も飛行機も船も大っ嫌いだ。自分の部屋に引きこもっているのが一番好きだ。

 

出不精だがデブではない。

 

さてバナシさんは既婚者なわけだが、じゃあ私も女性ができたらどうだろう。部屋から出るようになるのかな。

 

私のような者でも恋人ができたらデートとかするんかね。想像つかん。買い物とか大っ嫌いなんだけど。鬱陶しい。映画館も嫌い。暗くて人いっぱいいるから。本屋さん行くのは好きだけど、じっくり本をみたいから一人で行きたいし。

 

水族館なら行きたいかなー。でも水族館も別々に行動したがりそう。ううん、向いてないねー、そういうのに。まあ心配しなくてもそんな予定がないし来そうにもないし良いけどね。

 

人間に規格みたいなのがあればホント、自分は規格外のB級品だよ。エラー人間なのでしょう。コセ―とか言い換えれば聞こえはいいけど、求められないコセ―なんて存在価値無いじゃんさ。だったら需要のある量産品のがいいんじゃん結局。

 

かつては無個性に埋没することをいたく恐れてみたものだが、今更に無個性は無個性で良い物だったんだなと知ったよ。フツーに進学してフツーに就職してフツーに結婚してフツーに子供造ってフツーに人並みの人生送ってフツーに死ぬ。それのどれだけ難しい事か。それできたらフツーに勝ち組じゃんさ。

 

自分は早々にフツーからは脱線しちゃったし。マトモからも遠い。ずっと存在しないものを探し続ける人生しか送ってないものな。そして思いついた打開策が偽ることだ。偽るにしろ努力が必要で、で、それに足るだけの努力を積めているのか怪しいのだ。苦しい。

 

最初に配られたカードもおかしなカードばかりだったけど、中でも使えそうなカードばかり切ってきちゃった。残ったのはもう変ちくりんなカードだけ。この手札で戦えってか。自業自得の人だよなあ。

 

そういえば昨日、バナシさんの次に結婚する人誰かなみたいな話をしてたよ。「○○くんじゃない?」「えー、××さんでしょー」「またまたぁー」みたいに言いあってイチャイチャしていたよ。いい歳したニートたちがそんなイチャイチャしてるサマはある種の地獄絵図だと思いました、マル。

 

でもみんなモテそうに思うんだけどね。山奥と人里では違ってくるのかなー。みんな私と同じで規格外の欠陥製品なんだろうか。それでも私が最たるものに思うんだけどな。

 

バナシさんが前に言ってた。ギークハウスとかは天才タイプの人が多いけど、共生舎って普通の人ばっかだよねって。それホントそう思うね。天才って程にはオカしくなれない。規格外ならむしろそれくらい突き抜けた規格外のが需要あるやし。私らは中途半端やし。でも天才の人なんかと話しが合うとは思えないからギークハウスでなくて良かったと思うばかりだ。

 

まあいいや、需要無くても。私は私のことが大好きなので。きっと私の事なので上手い事誑かしてくれるんでしょう? 運命とか人生とか。神様とかをさ。

 

何でもいいけど、「誑かす」って言葉好きだな。言うに狂うで「誑かす」か。日本語の動詞の中では「慮る」と「憚る」と「蠢く」に並んで好きだな。

秋は人誑かしけり夜白む                 秋雷

 

んなー。なんだこの内容が定まらない記事は。どうした私は。またどこか壊したのか。これ以上どこを壊せるのか。

あえて、ちょっとブログを手抜きしようと思う。

記事に書くこともないのだが、まあ昨今のアクセス数の低下たるや酷い。往時の10分の1以下ではないか。

 

良いコンテンツの提供ができていないのが理由か。まあ、いい。今はとりあえずゲームと小説に打ち込みたいよな。

 

どうにも最近、自律神経のヤられている感が酷い。気温差が激しいのが原因か。よくない。少し考えなおすか。

 

どうにも落ち込む情報ばかりが眼前に羅列される。一回脳みそ取り出して洗いたい。暗鬱である。それでもここだと孤独ではないから救われる。孤独だったらただ鬱々を繰り返すだけなのだろうが、他の山奥ニートとくだらない話をするだけでも気は紛れるものだ。

 

月落ちて池のぽちゃんと鳴きにけり           秋雷

 

こういう時はホント、自分のことが嫌いになるよ。何をしても何もできない感じがして。上手くいかない時ばっかりだよ。自らの甘さほど呪わしいものはない。でも死ね死ねと自分を呪ってみても何にもならないんだってば。いい加減知れよ愚か者。

 

 

前夜は中秋の名月

暗所でカメラが映らないので月を写真に撮れなかった。高価な一眼レフとかだったら撮れるのかな。そんなん持ってないし、手が届かないし。そもそも写真なんか好きじゃないし。じって見てたよ。綺麗だったよ。

 

山奥は曇りだ。それでも雲を貫いて月光が地上を照らしている。足元が灯り無しで見える。さすが最も明るい月夜の日。濃い雲の狭間の、薄曇りの向こうにあるまん丸の月。たなびくベールの向こうの輝ける君。もやがかってる方が綺麗なんじゃないか、って思った。女性だってそうだろ? 夜目遠目笠の内って言って。

 

自然って美しいよなあって。秋海棠の記事を書いたときも思ったのだけれど。昔の私はは、花を見ても「花」としか思わなかったし。たいして心動かされることも無かった。でもこの世に「花」なんて花は無いんだな。秋海棠って名前があった。それは大陸から渡ってきた花で、この山奥に至るまで、人と人の間で何度も受け渡しがあったに違いないんだ。それって物語なわけじゃん。そう思えば感慨深いよね。

 

人も同じなんだよ。「人」なんて人はいない。街ですれ違う人たち、みんなちゃんと名前を持っていて。彼ら彼女らにはストーリーがあるんだ。思う事。思う人。みんなそれぞれ違って。

 

そう思えば、この世って面白いことだらけだよな。なんで昔の私は世界のことをツマンネェって決めつけてたんだろ。道に咲く花。通り過ぎる人。何なら石ころだって。目に映るモノ全てが物語だ。それってさ、面白すぎない?

 

私の知らないところで枯れて散る花もあるし、好きな人を想ってもだえる少女とかもいるわけだろ? 面白いじゃん。そういう無数の物語がすれちがったりぶつかったり、交差したり、混じりあったりして、ずっと続いていくんだ。

 

みんな平等にこの満月の下で。みんな気づいてるかな、満月だって。気づいてないならいいんだよ。気づいてないところにも物語はある。美しいものも、面白いものも、好きになれることも、たくさん散りばめられている。いいじゃん。素敵じゃんさ。

 

秋月の風に撃たれり草と人                秋雷

 

ここまで私らしからぬ記事も珍しい。こんな綺麗ごとみたいなのを嫌うひねくれもののはずなのだが。酒は一滴も入れてはいないはずだが酔っているのやもしれぬ。月は人心を狂わせるという。であれば月に酔わされたか。まあ、良夜なので赦す。

 

おざなりに仕事をすればおざなりな結果しか得られまい

小説を書くことも俳句を詠むことと同じなのだ。

 

よく俳句で、「下五が空いたからテキトーな五文字で埋めるかぁ……」と思って詠む句がある。当然、できあがった句のクォリティーは低い。

 

良い句を詠むときには確信があって詠んでいる。プロの俳人からすれば甘いのかもしれないけど、少なくとも私にとっては直す余地がない。17音の全てがカチッと決まって響きあって、それ以上の手の出しようがなくなる。これが出来上がったときはサイコーに気持ちいい。

 

小説ではそういう経験が無い。そこがダメなんだ。毎度毎度ふわふわしたテキトーな文で埋めているから文章が嫌いになる。本当に「良い文章」が書けているなら、他人に見せたくて見せたくて仕方なくなるはずなんだ。カチッとした、名文が。

 

確信を持って文章を書くべきだし、必要に迫られて語を用いるべきだ。10万文字書くのでも17音詠むときと同じ心地でやらないといけないのだ。一字千金の心地でやるべきなんだ。

 

いっつもいっつもおざなりに書きすぎる。天啓が足りない。それは努力が足りないのと同じだ。駆け足が過ぎるのだ。自分に甘すぎるのだ。そんなことではダメなのだ。

 

三日月やイツマデモ不完全ノ人             秋雷

 

確信の無いままにどうでもいい語で紙面を埋めようなどとするから酷い出来になる。一語すら確信を持って置くべきなのだ。完全を目指すべきなのだ。これが私の作品だと胸張って言えないような不出来なものをウネウネと作っているようではどうにもならないのだ。

 

わかっては、いるのだ……。