続ひまわりとかバレーとかiPodとか、憎いあんちくしょうとか

今日もひまわりプロジェクトの作業があった。ちゃんと朝早く起きた私は午前の部に参加していた。

 

めちゃくちゃ暑かった。軽度の日射病になって帰宅。iPodの電源を入れてみたが、なんとバックライトが死んでること以外は平常運転だった。つまり普通に生きてた。すげえなiPod。フレームが歪んで充電器させなくなってたけど。あんな過酷な環境にも耐えられたんだから、きっとこの子は強く育つだろう。

 

 

その後バレーに誘われたが午前に働いてダルかったので一度断った。でもどうやら人数が足りないようなことを言ってたため、すぐに終わるなと思った私は参加することにした。

 

ふたを開けてみたら過去最高の参加人数だと。おいおい。話が違うではないか。

 

3時間くらいバレーした。楽しかったけどクッタクタだ。もう脳みそが機能していない。ちょっと上達してるみたいなことを言われて内心喜んでいる私に驚く。あんな運動嫌いだと言うのに。

 

共生舎バレー部の部長が言っていた。「学校の体育の授業はできない人間を置き去りにする。もっと同じ競技をゆっくり教えてやればいいのに、できない子を無視してハイペースに進む。だからできない者は運動が嫌いだと思い込む。学校の体育は害悪である」なるほど。思い当たる節はある。そういえば、学校の体育でも柔道だけはそこそこできたから好きだったなあと思う。結局、できないから嫌なのだ。できるくらいのレベルに落としてもらえれば愉しめる。

 

学校の授業全般に言えることかもなあ、と思う。今の日本の詰め込み式の教育に何の価値があるのか私は見いだせない。わからない人間を置き去りにしてしまうのでなく、「わかることをわかる範囲で」教えて、まずその学問の楽しさを教えてやるべきなのではないか。私は学校の授業は嫌いで嫌いでならなかったが、ネットで科学について調べるのは好きだ。生物学も化学も物理学もどこかしらに面白さがあるのに、学校の無機的な学問はそれを苦痛な作業と化させる。本当に学ばせる気があるのか。

 

「1582年に本能寺の変があった」という情報に何の意味があろうか。その年号を丸暗記させるくらいなら何故光秀は裏切ったのかとかを教えるべきではないか? 歴史好きはその歴史の裏に流れる人間ドラマを好む者が多いと思うが、年号の部分を好む者などいるものだろうか。意味のない記号をむりやり覚えさせることに何の意味があろう?

 

義務教育では「電子レンジが何故モノを温められるのか」とか「どうしてプロペラで飛行機が飛べるのか」とか「蚊の効果的な数の減らし方」とかは習わなかった。高校でもだ。これらは私が自分が知りたいと思ったから調べて知った事象だ。そういうところから出発するのが教育でないのか。自分にはよくわからない。

 

あと憎いあんちくしょうの話。ブユだ。バレーしたらしこたま肌の露出箇所を噛まれた。ブユに噛まれるのは初めての経験だ。何なんだあの悪意ある噛み方は。蚊と違って皮膚を噛みちぎってから血をなめるとかいう頭のおかしい性質を持つ。また奴らは毒性が高い。計20か所以上食われた。今は呪わしい気分だ。あのブユとかいう生き物、何とか絶滅させられないのか。

 

ブユは清流の近くにしか発生しないと言う。山奥ならではの弊害だろうか。もう近くの川になにか悪い物質を流し込んじゃえばいいのにとか思う。何かブユ殺滅機械的な物を作りたい。マイクロウェーブとか照射して熱死させるなりしたい。ガンマ線照射して生殖機能を失わせて第二世代を減滅させるのでもいい。

 

今はもうブユの噛み跡がかゆいのと全身の疲労でもはや脳が機能していない。もしかしたら普段の記事よりもひどい文章になっているかもしれないが勘弁していただきたい。まあ普段もそう綺麗な文章書いてるつもりがないのだけれど。