山奥ニートと宗教

和歌山の山奥で若い男どもが共同生活をしている――

 

と、説明だけ見ればいかにも宗教団体っぽさがぷんぷん臭うのであるが、その実、我が共生舎では宗教はやってない。ほぼ全員が無宗教徒だと思う。

 

私以外は。

 

そう、たぶん私だけが共生舎で唯一の宗教徒である。進行する宗教は神社神道。簡単に説明すると、神社にお参りして神を拝するだけの宗教である。

 

 

あれ、それ無宗教と変わらなくね?

 

宗教団体には当然の如く所属していないし、当たり前だが共生舎でも勧誘など行ってない。っていうかそもそも私が宗教徒であることを知らない人も多いと思う。っていうかね、日本における宗教のイメージの悪さって、ほとんど一部の宗教団体の連中が下げに下げまくってるだけで、本来の宗教の在り方であればそんな悪いもんじゃないはずなんだけどなあ。

 

まー、宗教徒っていっても、私の普段の態度は科学信仰徒それそのものなので、全くわからないだろう。というか、一般的な宗教徒のイメージと普段の私はあまりにかけ離れているのではなかろうか。

 

ついこの間も、「生まれ変わり」について語った後輩山奥ニートに、「自我なんて脳みその電気信号の集合でしょ? なんで生まれ変わりなんてあんの? どういう原理?」とか言っていじめていたくらいだ。性格が悪い。

 

というか、個人的に死後救済と輪廻転生の理念は受け付けられない。「今生が悪かったら死ねばいいか☆」と簡単に思わせてしまう。スマホゲーのリセマラかよ。

 

 

 

宗教には大きく分けて二種ある。「死後救済」の宗教と「現世利益」の宗教である。

 

実はほとんどの宗教が「死後救済」の宗教だったりする。それもそのはず、そもそも宗教の発生理由自体が「死の恐怖の克服」であることが多く、それを簡単に行えるのが「死後救済」の理念だ。つまり宗教信じてれば死んだあと天国いけるよ、って話。宗教を信じた者は天国へ、信じない者は地獄へいく。信仰を持つことで死んだあとに救われるというのが死後救済。仏教キリスト教もこの発想だ。

 

しかし神道は「現世利益」の宗教である。

 

神道において死の恐怖は一切克服されない。神道において死者はみな平等に「黄泉」にいく。黄泉は天国でも地獄でもない。ただ暗い闇の世界である。負の世界であり、穢れの世界である。神道徒は死を穢れとして忌み、恐れている。

 

それでいいのだ。死への恐怖など克服して良いことは無い。克服するから自爆テロが起こる。自らの命を大切にするべきである。

 

仏教キリスト教が、「信仰すれば死後に救われる」と言って、死後などというあるのかないのかわからないモノをエサにして釣っているのに対し、神道は「信仰すれば生きている間に良いことあるよ」という。これが現世利益である。

 

これについて勘違いしている者も多いが、神社に行って賽銭入れれば必ずやご利益がある――わけがない。まず自分の努力が大事だ。

 

私から言わせれば、神徳というのは「100歩かかる道を、99歩努力で埋めた者の背を押して、100歩目を踏ませてくれる」ものであり、当然、神は99歩の努力を積んでもいない者を助ける義理などない。

 

というか、たぶん神などいない。だからそんな100歩全部歩かせてくれるような奇跡が起きるわけない。

 

私は神を信じているが、神の存在を信じていない。矛盾しているように思うだろうか? 諸君らは本当に神がいると思うか?

 

私の友達に神職に就いていた者がいたが、その者が言っていた。神職に就くための勉強する上で習ったことの中で、素戔嗚尊が八岐大蛇を斃したことを指して、「製鉄技術を持つ民族を征服した」という意味であるという説と、「暴れ川を治水した」という説、はては「火山活動」説まであると。これは素戔嗚尊が存在しない、フィクションの存在であることを前提とした話である。

 

つまり、神職に就いている者は神がフィクションの存在であることを前提とした勉強を受けている。神職みんながそうかは知らないが、少なくとも私の友達は、心の底から神の存在を信じていたわけではなかった。

 

では何故信仰するのか? これこそが現代宗教のありようのポイントであろうと思う。

 

科学は神を殺した。今や科学で証明できないほんのわずかな領域に「隙間の神」がいるだけである。なんていうのがそもそもちゃんちゃらおかしいのだ。

 

いるかいないかは関係ない。信じたいから信じる。それまでである。

 

まず、神をフィクションの存在だと仮定しよう。その場合、「神が人間を作った」のではなく「人間が神を作った」のだとなる。フィクションなのだから当然だ。

 

であれば、神すらも人間の創造物の一種であって、つまりはハサミだとかエンピツだとかの道具と変わりはしない。

 

つまりは「神も人間が作った道具であって、道具なのであれば便利に使った方がよかろう」というのが私の考え方だ。

 

 

自分から言わせてもらえば「包丁も法律も神も全て道具」である。刃物は使いようによっては人を不幸にするが、基本的には人の生活を良くするための便利な道具である。法律と言うのも、人間が作り出した以上、便利な道具であってしかるべし。日本は法治国家であって全て法律に準ずるそうだが、悪法によって国民が苦しめられるのであればそんな悪法なくしちまえと思う。法は人の作りし道具であれば人間の生活を豊かにするべきであって、そうでない法律は出来損ないのクズである。大事なのは人であって法ではない。

 

神とてそうだ。神によって苦しめられる者のいるならば、その神は出来損ないの神である。神は道具なれば、人を幸福にするために使われるべきだ。当然のように、神か人、どちらをとるかと問われれば人をとる。それこそが私の信仰である。人がより良く生きるための道具として神を利用する。決して人を不幸にするようには使わない。

 

神がいると一端仮定して生活を過ごしてみる。神が見ているから悪い事はしないでおこうと思う。良いことを積もうと思う。努力もしようと思う。神がいてくれた方が私の人生上便利であるから神はいることとする。現実にいるかいないかは関係ない。信じる者が救われるし、鰯の頭も信心から。

 

まー、これって実は日本の無宗教徒と何ら変わらなかったりする。日本人は無宗教と言いつつ、意外と信心深く、ことあるごとに寺や神社に足しげく通う。それに「何となく」悪いことはしちゃいけないなと思うし、「何となく」良いことをしておこうと思うし、「何となく」努力をしてみようと思う。この「何となく」の部分を仮に「神」と名付けただけのことだ。たぶん無宗教徒にも、かつての宗教徒としての精神みたいなのが染みついてんじゃないかな。それかただ善性が強い民族だからか? それは言い過ぎな気がするけど。

 

つまりは長々と語っておきながら、無宗教徒と大差ないのが私の信仰である。まあ、それでも困ったときにすがれる存在があるのとないのとでは精神的に大いに差があるだろう。でも無宗教徒だって困ったときは神にすがるんだよな。じゃあやっぱ変わらないじゃんさ。

 

ま、言ってみるなら「毎日謙虚に、よりよく生きるために神を信じてます」ってな所だ。それに神道の理念は創作に役立つしな。今や日本人も唯一神教的な発想がスタンダードと化し、アニミズム的な考えは少数派である。当然、多数派よりも少数派の考えをベースとして持っていた方が、他と差別化できてよい。というわけで私の作品はどこか神道風な雰囲気がある。これはこれで私の強みだろう。

 

人間、99歩進めても、運の要素やめぐりあわせによって、あと1歩がどうにもならなかったりする。そこを神に助けてもらうことで1歩進めると思いこめば、まあ気が楽になるもんだ。全部自分だけで何とかしようと思えば気を病む。自分一人で背負い込むには人間の人生は重すぎる。その負担を神に多少肩代わりしてもらう。言ってみれば、私は楽して生きるために信仰している。現代の宗教はそうあるべきじゃないかね。

 

個人的には、宗教徒が10人いれば10通りの信仰があるべきだと思う。そりゃ、信仰が道具なら、道具はその人の使いやすい形であるべきであって、みな全く同じモノであればむしろ不便だろう。何せハサミやエンピツではない。右利きと左利きがいるくらいの差ではなく、人の心のありようは千差万別である。故に信仰の形も種々あるべきで、だから同じ考えで染め上げようとするのには同意できない。

 

自分の信仰が持てず、誰かの信仰を受け取るだけなら、むしろ無宗教のままいた方がよかろう。であれば神に苦しめられることはないのだ。結局、無難なのは無宗教でいることである。よくわかってないくせして手を出すべきではないのだろう。

 

というわけで、結論「私は神道徒だが無宗教徒と大差なく、読者諸氏も無宗教でいた方が無難である」だ。ははは。この結論でおさまるならこんなに長文で書いた意味ねえ……

 

神さぶる星月夜時統べにけり             秋雷

 

何でもいいけどホント山奥は星綺麗ね。天の川とかちゃんと見たの初めてかもしれない。こういう星を見て身体を震わせるのも、神威によるものだと思うのよ。肌で神を感じるっていうか。実際にはいないのかもだけど、今、星を見て抱く感動には神が宿っている。そんなもんでいいのよ、神なんて。