山奥ニートと宗教の弁解

 id:banashi1

>「人間が神を作った」
狩猟採集生活時代にも神殿があり、そこで複数のグループが集まり酒を神に捧げていた跡があるらしい。そして酒の材料の麦を育てるために、農耕生活が始まったという説があるそうな。そう考えると、神が人間を作ったとまでは言えないが、神が人間を人間にしたとは言えるかもしれない。
あと、宗教ってそんなに簡単に信じるか信じないか決められるものじゃない。生まれ変わりの話をした後輩ニート君だって、本気で生まれ変われると信じているわけじゃないけど、当たり前の概念としてその話をしたわけじゃん。でもその当たり前は日本独自のもので、そういうものを宗教と呼んぶべきなんじゃないかな。

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山奥ニートと宗教についてのバナシさんのコメントである。徹夜テンションで記事を書いてはならないなとすごく反省する。というか宗教の話は「してはいけない3S」の話の内だ。いわゆる、宗教、政治、性についての話は口論になるのでしてはいけないと。

 

(最近、アクセス数が低迷してたから炎上狙いで過激な記事を書いたのが仇だったな……言葉足らずな自分が呪わしい)

 

まあ、まず弁解すべきはたぶん記事タイトルであろう。「山奥ニートと宗教」ではなく「山奥ピエールと宗教」とすべきだった。私の個人的見解のみを述べているのだから、私個人の名前でするべきである。あと私は個人的見解を断定口調で記す癖をどうにかするべきだな……いっつも思う。本体の性格も悪いが、ネット人格の私はそれに輪をかけて性格が悪い。攻撃性が5割高まる。よくないなあと思う。

 

 

>「人間が神を作った」
狩猟採集生活時代にも神殿があり、そこで複数のグループが集まり酒を神に捧げていた跡があるらしい。そして酒の材料の麦を育てるために、農耕生活が始まったという説があるそうな。そう考えると、神が人間を作ったとまでは言えないが、神が人間を人間にしたとは言えるかもしれない。

 

バナシさんのこの部分だが一切否定する気はない。というかそれこそ私から言わせれば「人の生活を良くするための信仰」の初期の在り方だったと思う。人間を人間たらしめたのは「道具」あるいは「火」あるいは「言語・文字」の利用であるとよく言われるが、自分はそこに「信仰」をつけたしたい。多くの文化圏において信仰が存在する以上、人類初期においては人を人らしくするのにきっと神の存在は大切だったのだ。文字の無い文化はあったろうが、信仰の無い文化はたぶん無かったと思う。そういう意味でも、神の存在が人を人たらしめた。というのは自分も確かなことだと思う。

 

 

>あと、宗教ってそんなに簡単に信じるか信じないか決められるものじゃない。生まれ変わりの話をした後輩ニート君だって、本気で生まれ変われると信じているわけじゃないけど、当たり前の概念としてその話をしたわけじゃん。でもその当たり前は日本独自のもので、そういうものを宗教と呼んぶべきなんじゃないかな。

 

この部分であるが、それも否定する気はない。その記事のコメントに自分が書いたことの繰り返しになるが「習慣」を「宗教」と呼ぶべきかどうかは難しいところだ。かつて大日本帝国憲法下でも「信仰の自由」は保証されていた。国家神道は「宗教」ではなく「日本人としての習慣」だと思われていたようだ。みんなが日本の八百万の神を信仰するのが半ば当たり前だったので、それが宗教であるという認識がなかったのだろう。

 

であれば、漠然とした「習慣」としての神への信仰心は、ほとんどの日本人が持っていると言えよう。年始には神社へ初詣に行き、不幸があれば僧侶を呼んで仏事を行い、12月になればクリスマスとしてキリストの生誕を祝う。これを宗教と呼ぶかどうかは微妙なラインだ。しかしそれを言い始めたら自分とて明確に宗教として信仰しているのかという問題になってくる。ともすれば、自分とて宗教ではなく習慣なのかもしれない。

 

あと「生まれ変わり」であるが、これもコメントの引用をさせてもらおう。

実は、あれは「幽霊はいるかいないか」の話の時に「科学的に見て幽霊はいないけど、生まれ変わりはあるんじゃないか」と言われた故に、科学的に見たら生まれ変わりも霊と大差ないという意味で、そう言ったものだった。

 

その話の後で、それこそ「隙間の神」みたいだが、人間がまだ明確に認知できない「四次元以上の世界」だとか、もしかしたらあるかもしれない「超心理学分野」まで含めれば、霊も生まれ変わりもあるかもしれないとフォローしている。科学の徒であるがそれでも自分はロマン派である。神も仏も妖怪も霊も、科学では証明されていないがために多分存在しえぬが、それでもいるかもしれない可能性は存在するし、いるならいていいと思う。というかいてくれた方が楽しいし、だからこそ「いるということにしよう」と思っているのが私なりの信仰である。まあ、死後の世界と輪廻転生については宗旨的に好みではないが。

個人的な話で言えば祖霊崇拝は嫌いじゃない。お墓にご先祖様がいて、ご先祖様を尊崇するという概念が祖霊崇拝であるが、これは仏教のもののように思われがちだが、仏教徒は理念があわない。何故なら仏教では人は死後六道を輪廻転生するか解脱し極楽浄土へいくからだ。この祖霊崇拝は日本独自の原始宗教である。神道の理念と少し食い違っているが、まあ祖霊もアニミズム的に神に含むとすれば納得はいく。それに、わざわざ神道とすりあわさなくとも、日本人は習慣的に祖霊を重んじるものだ。祖霊を大切にすることは良い事だと個人的には思う。

 

あと、「神を道具である」と言い切っているが、実はこれもわざとかなり過激目に書いている。友人とこの話をする際は必ず「烏滸がましいとは思うのだが」と枕につけてから述べている。信仰心自体は実は厚いので、神を道具だと言い切るのには少し抵抗があるのだ。自分の信仰としてのスタイルはそういうもので相違いないのだが、しかしそれも畏れ多い物言いであると思う。例えば自分は天照大御神をアマテラスと尊称抜きで呼称することに抵抗感がある。本気で道具だと割り切っているなら呼べるはずであるが、道具であるとしながらも私の中にある神威を畏れる心がそれを許さないのだろう。ともすれば道具として利用しようという浅ましき私よりも、神威を畏れる私の方が信仰徒らしいのかもしれない。

 

それでも、神と人とどちらをとるかと言われれば人をとるけれど。あくまでも人の方が優先順位が高い。神像と人の命のどちらもが危険にさらされているなら、迷わず人の命の方を救う。たとえそれが不敬であれ。この辺は、普通の日本人と変わらないと思う。

 

あと、「個人的に」輪廻転生と死後救済の理念については受け入れられないものがあるが、まああくまでも私個人の話だ。私は信じないが、他人が信ずる分においては否定しない。とくに、それが「人を良くするための信仰」に通じるのなら、むしろ進んで信じた方が良いと思う。私が言うのは、「他人や自分の生命や人生を害するような信仰の仕方」が間違いだと述べているだけで、「他人や自分を幸福にする信仰」であれば進んですればよいと思う。これはもう、あの記事で私が断定口調で否定するのが悪い。

 

現代日本において信仰徒の肩身は狭いものだが、この世知辛い世であるからこその信仰というのはあるとおもう。信仰徒は信仰徒で、それが自らや周囲を幸福にするモノであるなら、いかなる信仰であれ決して間違いではない。宗教と明確にせずとも習慣でもいい。祖霊を尊び神仏に祈りを捧げるのは日本人の習慣である。良い習慣だと思う。

 

自分が信仰に対して一番悲しいのは、「神仏も霊も存在するわけないんだからそれを信仰するなんてバカのすること」みたいに言われることかな。太古の日本から綿々と続いてきた「習慣」を、そうやって否定されるのはとても悲しい。もちろん信仰によって他人を傷つける輩は非難されてしかるべきであるが、そうでないなら否定しないでやってくれよと思う。別に無宗教なのも否定しないが、害のないものを許容するくらいの懐の広さを持ってくれないか、と。

 

まあ、昨日の記事は「科学の徒でも信仰持ってたりするんだよ」「本気で心の底から神の存在を信じてなくても信仰は成り立つんだよ」ということが言いたくて書いたものだ。半ば炎上狙いだったのがよくなかったけど。自分だって多分「神霊は存在しない」と思うけど、でもいてくれた方が人生楽しいから信じているわけ。「絶対いないから宗教はバカ」みたいに言う人に対してこういう考え方もあるよっていうのをわかってほしかった。それを述べようとして、さらに多数の敵を作っているので本末転倒であるが。

 

稲妻や神鬼畏るるは人の性            秋雷

 

もう小説書いて俳句詠も……体調悪いし。にしろバナシさん自分のブログ読まれてたんですね。早い指摘ありがたかったです。過ちは早く訂正されるべき。