努力すれば必ず夢は叶う――(ry

私が考えた名言。

「努力すれば必ず夢は叶う――」

 

これ言った時、G先生がすっげえゲンナリした顔で「いや、それよくあるやつですやん」って言ってたのを思い出す。

 

薄っぺらいよな。単なる根性論だしな。でもさ、ここで終わりじゃない。この名言には続きがあるんだよ。

 

「努力すれば必ず夢は叶う――

 

 

 

――何故なら、結果を出さなければそれが努力だと誰も認めてくれないから

 

そう。私が言いたいのは根性論ではなく結果論。結果を出せて初めてそれまで積み上げてきたものを努力として認めてもらえる。でも結果を出せなかったら、それは単なる徒労に過ぎない。だから実らない努力はない。実ってない時点で努力ではないから。

 

残酷ですよね。まだ結果出せてない私はホント、毎回キツイ思いしながらこの言葉を口にする。

 

でもさ、頑張りさえすれば結果が出なくてもいいなんて嘘じゃん。努力さえすればいいとか嘘じゃん。頑張っても頑張っても誰にも見向きもされない奴らばっかじゃん。私も含めてさ。

 

努力する姿勢だけで美しい? 嘘じゃん。全部結果出てナンボじゃん。

 

逆を返せば、結果さえ出せれば頑張ってなくったって褒められるんだよ。世界ってそうなってるよね。だから天才とか才能とか、そういうのはチヤホヤされる。凡人は凡人のまま。誰にも見向きもされない。

 

私だって、昔は自分のことを特別な存在だって。そう思ってた時期があった。中学生とかの時ね。きっと自分は特別で、だからきっと特別な人生を送って、特別な成果を上げられるって。でもさ、本当に特別なんだったらもうとっくの昔に結果出してるんだよね。成人したあたりでさ、もう気づいた。天才ではないし、才能もないし。なんか理屈こね回しているだけのクズだし。今やニートだし。ついこの間まで持ってた山奥ニートって付加価値すら失った、マジでどうでもいい感じの存在だし。

 

だから、私という人間は凡百中の凡夫なのさ。その上、社会に適合しづらいときた。こうなってしまえばもう凡人ですらない。クズだ。クズです。クズでした。どうしようもないね。

 

でもさ、「クズだし、じゃあ世を儚んで死にますか」って言って死ねるほど、私は諦めが良くないんだよねえ!

 

いいじゃん。凡人でも。いいよ。全然いいよ。凡人が天才を打ち倒す物語。かっこいいじゃん。努力とかしてさ。修行とかでパワーアップしてさ。昭和の漫画みたい? 今どき古い? ダサい? 結構だよ。

 

今の時代ってのはさ。最初っから強かったり、そもそも苦戦しなかったり。そういうのが流行りみたいだね。でも知ったことねえよ。俺には関係ねえよ。

 

 だってそんなんできねえもんしょうがねえだろ。才能ねえんだからよ。っても凡人だって夢見て良いだろうがよ。何が悪いんだよ。

 

って思ってしまう。

 

私がいくら頑張っても結果が出せなきゃ誰も認めてくれない。徒労だ。怖い。今積んでいるモノが徒労なのか、努力なのか。後からしか判断できない。それってとっても怖ことだよ。徒労になってもいいじゃんとか思えない。徒労は嫌だ。結果でないならやる意味ない。

 

でもだからって何もしなけりゃ何もないクズだし。もうしょうがねえよ。これ。

 

 

あと、ね。私が唯一、自分に宿っている才能ってのがあるように思うんですよ。唯一、これだけは才能として持っていると。

 

文章を書くことでも、発想力でも、表現力でもない。それらの才能は欠片とてない。

 

私が多分持っている才能。それは「最小の労力で結果を最大化させる才能」だ。

 

かつて私はそれなりの進学校に入学した。みんなすげえ努力して、勉強して、それでもその学校に入れない子はたくさんいたという。でも私はたいして労せずに入った。授業さえ受けてれば試験内容はほとんどカバーできた。家で勉強なんて宿題くらいしかやってなかった。それでも結果は出せた。あの時点で、私は「努力」を小馬鹿にする人間へと出来上がってしまっていた。

 

その後、その学校内での成績は惨憺たるものだった。そりゃ賢い子が集められたうえでみんな努力してるんだから、努力してない私が結果を出せないのは当然だった。

 

しょうがないのでクラブ活動で結果を出そうとした。しかしそれも努力をする気が無かった。

 

文芸部では、県大会締め切りの前夜にちゃちゃっと作品を作って応募した。何日もかけて作品をブラッシュアップするなんてごめんだった。それでも、だいたい入賞した。まあ、こんな感じのを作れば入賞できるんだろうなとは思いながらやっていた。それに、県下の文芸部の集まりに何度も顔を出すことで、私は馴染んでいた。顔なじみである私の作品は他の者の作品に比べて、少しは審査員にひいきされるだろうという打算すらあった。さらに、一つの作品を高いレベルに持っていけない私は、物量で押し切ることにした。応募規定ギリギリの量を送り付けることで沢山賞がとれた。

 

弁論部でもそんな調子だった。まず控室に入った時点ですでに私の戦いは始まっている。全員に話しかける。その反応を見て、どいつが一番強敵かを見極めておく。そして、そいつにべったりと張り付く。そしてやたらテンパった振りをし、「緊張する」と何度も繰り返して話しかける。ずっと話しかけ続けることで原稿を確認させない。緊張を刷り込む。中々にクズい戦略だったが、実際にそいつが弁論中に原稿がトんだりしていたあたり、効果のある戦略ではあった。それでいくつかの小さな大会で最優秀を獲った。恥だとは思わなかった。反則手は一切使っていない。これはこれで努力だろと開き直ってさえいた。

 

それぞれの作品内容についても、できる限り効果の大きい作風を狙った。最後の文芸県大会においては他と差別化するためにホラー作品にした。それもかなり特殊な作風だった。その大会内では他に類を見ない作品で、それだけで票が集まった。弁論部においては、審査員の職業的にどんな弁論が受けるか考えていた。とある政党主催の大会では、厚生労働省のHPから過去の統計とかを引っ張り出して弁論に仕立て上げていた。出来る限り他の者より理知的に見えるように喋った。政治家が審査員なら、きっと理知的な者を好むであろうと思ったからだ。その考えは当たっていた。

実際の実力よりも上であるように見せかけるための努力だけは惜しまなかった。

 

クズだ、清々しいまでのクズ。

 

こんなその場しのぎの姑息戦法ばかりとってきたために、大学受験では挫折し、現在はニートしている。まあ努力云々よりも、そもそも勉学に向く頭脳ではなかった。

 

だからこそ、私は確信しているのだ。

 

「最小の労力で結果を最大化させる才能」を持つ者が頑張ってみれば、それなりに結果を出せるのではないかと。

 

今の時点で、すでに色々と戦略を練っている。まったく大したことが無い私というクズを、すごい天才に見せかけて欺瞞できれば私の勝利である。そのためにはどうしたらよいのか。そのためには何が必要だろうか。

 

必要なものがあるなら頑張って手に入れなければいけない。その頑張りが努力なのか徒労なのか。私次第で決まる。ここでは大っ嫌いな頑張ることを耐えてやらねばならない。ここですら頑張れなかったら、本物のクズだ。

 

さあ、私がこれから「ただのクズ」になるのか、「天才に擬態したクズ」なるのか。可能性で言えば前者のが高そうだ。でも後者の可能性とてゼロではないし、そもそも今までのクズい実績だけ見れば、意外にイケそうな気もする。

 

いかに性悪な手段で勝利をもぎとってくるか――化け狐のごとき自分の才に、ある種の自信を持っている。私は、麒麟にはなれない。獅子にも虎にもなれない。でもそうであるかのように化けて見せかけることはできるのではないか。化けれればそれで勝ちだぜ。

 

尾裂啼く深山の夜は冴えにけり                 秋雷

尾裂は妖怪。憑き物。尾の裂けた狐。諸説あるけど。妖怪好き。狐好き。自分みたいだからね。

「天帝我をして百獣に王たらしむ」ってね。そういうこと言っちゃって、虎を出し抜きたいわけですよ。虎ではない、小さな獣に過ぎない私ですが、虎に勝つ方法はあると思うのです。だったら勝てばいいと思うのです。