自己否定悪循環+残骸錬金術+分裂型執筆法=?

自己否定悪循環(ネガティブスパイラル)編

 


私にとって小説を書くという行為は、もはや「自己肯定の行為」ではなく「自己否定の行為」に成り下がっている。

 

 

昔は良かった。学生のころだ。クオリティなど一切気にせず、ただ莫迦みたいに小説を書いていた。あの頃の作品と言えば一夜で書いた短編ものが多い。長編を書くほどの集中力が続かないのだ。というより一晩しか続かないというのが正しかったのかもしれぬ。しかし、どうせ学生用の大会など短編しか受け付けてないのだからむしろ好都合だった。

 

あの当時の私にとって小説は「自己肯定」の手段であった。勉学も運動もからっきしで、クラスに友達すらいず孤立し、教師にすら見放されていた私にとって、学校は拷問器具の一種に思えた。その辺りのことはあえて暗黒の学生時代についてここに記すとか努力すれば必ず夢は叶うで書いたのでこの辺にしておこう。 


 

自己を否定する要素に囲まれていた以上、そんなものを利用せねば胸が詰まって息を吸う余地すら無かった。私が今日まで生きていられるのは小説のおかげかもしれなかった。あの当時、小説を抜きにすれば、ただ「トゲ付きの面白くないこと」の連続で人生が構築されているように見え、唯一私を傷つけないものこそが小説だった。

 

今や小説すら無数の刃物で飾られている。その刃一本一本には私の血がこびりついている。絶望だ。

 

歳をとって物の良し悪しの分別がつくようになると、ただ「書きなぐっていた小説」というのが徐々に「丁寧に作る小説」へ移行する必要が出てきた。クォリティーを上げねばなるまい。それも崇高なテーマ、斬新な世界観を表現するには短編では尺が足りない。長編だ。

 

クォリティーの高い長編を書こうとしたときに私は絶望的に向いてなかった。まずそこまでの集中力を維持できない。さらに集中力が切れたあたりで小説が私に牙剥き始める。悪所、欠点が目につき始め、「コンナンジャ、ダメダ」で眼前が埋め尽くされていく。しかしどうすればよくなるのかがわからない。筆が止まる。無理に続けようとすると「ダメダダメダ」が増えるだけでどうにもならない。いつしか「コンナンジャ、ダメダ」は「ワタシハ、ダメダ」に変換され、自己増殖し、脳内を埋め尽くし始める。こうなったら鬱だ。あとはただ自分を否定して、自分を傷つけて、どうにもならなくなる。自己否定によって、「自己肯定の螺旋階段」を転がり落ちていく。昇るために書いていたはずなのに、転がり落ちるために書いているようになる。鬱で鬱が止まらなくなる。

 

こうなってはもはや手遅れ気味である。理想と自分の実力が乖離しているが故にどうにもならない。書けば書くほどただ傷ついていくことになる。そしてそれに耐えられなくなったあたりで筆をおいてしまうので、物語は小説成りえずただの残骸となる。

 

これを繰り返すことで物語の残骸だけが蓄積していく。自分のパソコン内にその残骸が集まった「物語の墓場」がある。登場人物たちから怨嗟の声が聞こえてきそうだ。

 

もはや執筆というのは自虐の領域に存在する行為に思え、「ちょっと傷ついてみるか」と思って書き始めて「やっぱり傷ついた、耐えられない」となって辞める。この繰り返しである。クズの手管だ。と思うが、そう思えば思うほど再び自己否定のスパイラルにおちいる。どうにもならない。

 

その全身を刃物でデコレーションされた小説とかいう概念に未だすがっているのは、やっぱり好きだからなんだろう。向いてはいないのだろうけど。才能もないのだろうけど。

 

自分の気質的に小説より俳句のが向いてるんだろうなあ。俳句は短いから簡単に詠めるし。でも好きなのは小説なんだよ。俳句集とか詠む気にならないし。やっぱり面白い作品を読んだ時の感動が大好きなんだ。じゃあ読むだけにしとけと思うけど、それはそれで我慢ならないのでたちが悪い。

 

自分の可能性とかそんな青臭いものを探求できる段階にない。自分がいかに才能が無いか身に染みてわかっている。クズであるかをよく知っている。だが未だにすがっている。この自己矛盾こそが自虐の一因であろうよ。

 

ただ、自己否定の悪循環の渦の中で、脳死状態のまま残骸を量産してきた私であるが、それによって無意味とも言い切れぬ結果を得た。暗鬱の連続帯の中でこれはある意味、私にとっての光になった。

 

 


残骸錬金術(ネクロアルケミー)編

 

才能が無い故に面白くもない小説を書き始めて面白くないといって捨てて残骸の山を築いた私であるが、それによって築かれた残骸の山を見るに、ただ無価値の集積体というわけでもないということを知った。

 

何故ダメなのかを考えてもよくわからないことが多いけど、今にして思えば「良いところが無いから」なのだと思う。とはいえ「良いところが全く無い」わけではない。

 

それを書き始めた時は「面白い」と思って書いている。何故面白くもない作品を面白いと思い込んでいたのか。ただの思い込みか。違う。「良いところがある」からだ。「光る部分」があるからだ。とはいえその分量はごく微量である。あるのかないのかわからない程度である。しかしそれに気づけただけ上等である。

 

残骸から「光る部分」のみを抽出し、それを転用することでまた作品を書く。それは結局残骸になるのだが、再び「光る部分」を抽出する。また転用する。それを繰り返すことで「光る部分」の濃度が上がっていく。純化されていく。

 

これぞ残骸錬金術である。

 

私が学生のころから、長編のアイデアは書き貯めて来た。10年分の残骸は、十やそこらでは効かない。数十、ともすれば百ほどの残骸によって純化された「光る部分」は、今の私をしても、「悪くないんじゃないか」「ダメじゃないのではないか」と思えるようになった。

 

自分の強みと言えばここだけだと思う。

 

最大の問題は、この手法であつまる「光る部分」は序盤のモノに限られることだ。コンセプト、キャラクター設定、世界観設定。この辺は割とよくなってきた。でも作っては壊し作っては壊しを繰り返して得られるのはそこまでなのだな。ちゃんと書き上げてはじめて物語の構築力、文章力が上がる。そして小説において本当に大切なのはそのあたりなのだよなあとも思う。

 

ずっと残骸錬金術を続けていてもしょうがあるまい。もう切り上げる時期だ。次の段階に移るべきだろう。

 

 

分裂型執筆法(マルチアヴァターワークス)編

これが今回新たに考えた作業方式である。ADHD気味の私はどうせ集中力が持たない。高い壁を前にして、それを登ろうと思えない。よって壁を砕いて複数の低めのハードルに転換することで、簡単に乗り越えていこうという策である。

 

困難は小分けにせよ。これだ。

 

私は5月から俳句を150句以上作った。ブログを書き始めて154日、そのうち今日までの144日は連続更新である。記事数は181。

 

これは軽量のタスクであれば問題なく実行できることの証拠である。

 

長編小説を書くというのは超重量級のタスクであるが、それを砕いて軽量のタスクの集合体とする。これによって問題なく実行できる……ようになるんじゃないかな。

 

A、作品コンセプト
B、世界観設定
C、キャラクター設定
D、シナリオ設定
E、マクロプロット
F、ミクロプロット
G、本文執筆(甲)
H、本文執筆(乙)
I、本文執筆(丙)
J、校正

 

計10作業。これでも本文執筆の負担はものすごく重そうだからもっと分裂すべきかも。

 

ついでに全部を他人にやらせる気分でやる。もはやこの辺は遊びの領域である。

 

書かないけど、全員に名前つけてるからな(狂気)。

 

E作業を行っている時にD作業担当の雑さに文句言ったりしてやる。

 

まあこれでとりあえずやってみて、それでもダメなら改善点洗い出していこう。できないできない言っててもしょうがないし。とりまやってみてから考えようぜ。私はやる前から色々考え過ぎなんだよ。

 

秋晴れの公園人は人なりけり              秋雷

どんどん足し算していこう。こっからまたやり方増えればもっと効率的やし。