私は、セックスをしたことが無い

「てく」に書け書け言われてきた童貞ネタを書こうと思う。

 

山奥ニートと性、というのも中々に興味深いテーマだ。この世俗から隔絶された空間には十数人の男しかいない。性というのは人間を語るうえで避けては通れない道である。

 

自分はその山奥ニート内でもそこそこの勢力を保つであろう童貞レギオンの一員である。

 

 

何故したことがないのかと問われたら「結婚してないから」と答えよう。私は婚前交渉などもってのほかだという昭和の価値観を持つ平成生まれである。イマドキフルイー、といわれるだろうがそもそもこの婚前交渉の禁忌というのも明治時代以後の発想で、実際江戸以前の日本はかなり性に奔放な世界だったという。欧米列強に並ぶために輸入した思想だったのだ。

 

男は若ければ誰だって性欲の獣であるが、しかして性交のためには所帯を持たねばならず、であれば若い男が金を沢山稼ぐ必要がある。結果、男を馬車馬のごとく働かせて、さらに早婚させることを可能にする。生産性向上と人口増加を両立させられるわけだ。今の真逆だ。別に結婚しなくてもセックスできるのであれば焦って結婚するメリットが男側にない。別に働かずにニートでもそこまで問題ない。江戸期にも働かないでゴロゴロしているだけの男どもが貧乏長屋にたくさん詰めていたそうな。あの時代の空気は現代日本に似る。

 

この辺、自分は生真面目で潔癖症であるので、「結婚してからすべきこと」という方がしっくりくる。他人に強いる気はないが、自分はそうあろうと思う。

 

 

さてセックスであるが、これにおいては同じ日本人でも個人個人によって全くとらえ方が違うだろう。宗教にも色々派閥があるというが、セックスの方が宗旨違いが多いのではないか。セックスは愛の行為であると言う者もいれば娯楽である、と言う者もいよう。生物学的に見て生殖行為であると割り切っている者もいるだろうし、男女関係において形式的にとりあえず踏んでおく段階だとドライにとらえている者もいよう。

 

よって、この宗旨違いによって、多くの場合、「私」におけるセックスと、「あなた」におけるセックスは等価ではない。これは悲劇ではないか。

 

女性のセックス依存症というのもあるが、多くの場合、こういう人は性淫乱なビッチであるとも言い切れぬという。セックスは相手があって成り立つ行為だ。つまりは、セックスをしている間だけは自分の価値を相手に認めてもらえる、自分が必要とされるが故に依存していく者が多いと聞く。アイデンティティのゆらぎだ。この世に対して己のちっぽけさに震え、「いらない子」であることを恐れる者にとって、一時であれ自分を必要とされることは甘露となろう。今、自分に覆いかぶさっている男にとって、今だけは自分の存在が必要なのだ。しかし終わってしまえばまた「いらない子」に戻ってしまう。魔法が溶ける。よってまた性交を求める、スパイラルだ。しかしこれは抱く男にとってのセックスと抱かれる女とのセックスが等価ではないためずっとずっとすれ違い続ける。負のスパイラルは止まらない。そして年齢ばかりがかさんでいく。悲劇だ。

 

これは、童貞の自分もよくよく理解できる。前に「僕という一個の人間が確かにここに存在しているということを、あなたに知ってほしいんだ」の記事で書いたが、自分たちもだいたいそういう闇の中で創作している。アイデンティティのゆらぎか。自らの小ささか。「いらない子」であることへの恐れは私たち童貞とて抱くものであろう。意外な共通項である。

 

21世紀は多様性の時代であって、ゆえに悲劇である。人々の間によってセックスの価値は等価ではなく、その行為を積めば積むほどにすれ違いを深めていく。

 

私がそういう行為に及ぶなら、価値感の似た人がいいな、と思う。自分もそんな悲しいすれ違いに巻き込まれたくない。

 

だからこその「結婚してからすべきこと」思想だったりもする。これを徹底すれば、性交を娯楽や時間つぶしの一種ととらえている女性はふるいにかけられ選択肢にすら入ってこれまい。どうせ恋愛においては超弩級戦艦並みの重い男だ。生来の粘着性であって、ストーカー気質。この大量生産大量消費時代に同じガラケーを10年使い続けようという強い執着心の人だ。コンビニエンスストアに行く感覚でセックスできる人種と私が合うとは思えない。どっちが正しいわけでもないのだろうが。

 

自分にとってのセックスとは――。娯楽だなどと言う気はさらさら無いし、愛だと言うには私は歳を取り過ぎた。生殖行為だと教科書的な回答を寄越すのが私らしいのだろうけど、そこまでイジけちゃいない。

 

対話だ。

 

セックスは対話だと思う宗旨の人だ、私は。

 

コミュニケーションだ。ゆえに快い対話のためには相手を理解する努力が必要となろう。それに独善的ではよくない。とはいえ自己犠牲的に相手に尽くすのもいかがなものか。人と人が二人いて、お互いに快くあるにはどうしたらいいのか。尊重すること、敬意を抱くこと、畏れること、親しむこと。愛すること。そういうのが大切なんだと思うし、そういう気持ちで接することのできない相手とは対話する価値もない。私は人見知りだ。誰とでも対話したいタイプではない。

 

対話の結果得られるのは「相手を理解できた」という錯覚であり、「自分を理解してもらえた」という自惚れである。究極的に言えば、人間が自分以外の他者を完璧に理解することなどありえない。とはいえ、錯覚や自惚れを抱くことの何が悪いというのか。真だけが真なら世界は成り立たない。嘘すらも真である。

 

きっと、「相互理解」できたという思い込みはとてもとても幸せな感情をもたらすのだ。私はその幸福が欲しい。そういう幸福で、穿たれた空洞を埋めたい。たとえ空虚だと言われようが、実はなくとも種があるなら意味のないものでもなかろう。空虚だとも言い切れまい。

 

女郎花何と云おうか思案せり               秋雷

 

童貞がセックスを語るという狂気。まあとはいえこれについてはみんな一家言あるだろうからな。宗旨ごとに違う思想があるだろう。

 

何のかんの言いつつ私も男の子だな。セックスについて思いを巡らせるとどうも少しやる気が出てくる。割と異性関係をあきらめている山奥ニートもちらほらいるが、私はあきらめの悪い子だし。セックスをしたくばカッコいい男になるべきだ。アリノママノ自分など対話する価値もない。カッコいい自分を偽装するにもかわいらしい女性を誑かすにも努力を積む必要があろう。やる気がでてくる。

がんばろ。善き人に好かれるために。