俳句は上達すればするほど一般人に理解できなくなるという弊害がある

俳句というのは語と語の響きあいが如何に美しいか、っていう文学作品だって思うのだけれど、でもそれを極めれば極めるほど俳句を勉強したことが無い人たちに理解されなくなっていく。

 

まるで高尚な芸術が一般人に理解できないように。

 

まあ、私がその境地に立っているのかっていうと全然そんなことないけどさ。これから俳句を上達していっても一般人に理解されないんだって思うとなんか虚しい。いや、あくまで俳句は小説の表現の幅を広げるためにやっていて、そういう意味では結果は出てるからいいんだけど……それだけじゃーつまんないんだよなー。

 

おーいお茶のやってる「おーいお茶新俳句大賞」とかマジそう思う。あれ、ちょっとだけ俳句の勉強した身からすれば「大して響いてない作品」ばっかりに思うんだよね。ぶっちゃけそんなに良い作品でもない。でもお茶の側面に高尚でほとんどの人に理解されない俳句載せるくらいなら分かりやすいあれくらいの作品がいいんだよってなる。そりゃそうだよなあ……

 

矛盾。どうする。

 

川柳と俳句は全然違うものなんだよね。俳句から見れば川柳なんて俗的で芸術性は低い。ダジャレ的な感じ。でも、理解されるのは川柳の方なんだよなあ。で、理解される俳句ってのを作ろうとすると川柳化するんだよ。「おーいお茶新俳句大賞」も「季語の入った川柳」みたいになってる。どうしようもないよなああ。

 

かろうじて理解される俳句ってなると確実に一物の句でさらに「気づき」の作品になってくると思うんだけど、それって難易度めちゃ高いですやん。そうでなきゃわからないか、わかったとしても川柳か標語みたいになる。川柳や標語になってるのを一番嫌がるのが俳句詠みなんだけど。

 

まだ短歌の方が可能性あるよ。俳句が17音で短歌が31音。倍くらい違う。57577もあれば、575で整えて77でオトすって手も使えるけど、575だけだと57で整えて5でオトすことになる。っていうことはオチはほぼ一語だよ。一語って。俳句じゃほとんど隠喩しかできないけど、短歌なら直喩も簡単に行ける。むずい。

 

現代短歌って良いと思う。一般人にも理解できるし。サラダ記念日とかさ。口語調散文的表現でも何とか形になるだけの文字数があるって羨ましい。

 

文語調韻文表現でかつ季語を入れて、それが響いてないと成り立たないとなると、これ勉強してない人間に理解しろって方が無茶だよ。

 

 

新時代に合った新時代の俳句みたいなのを考えてたんだけど……思いつかない。結局すでに完成されていてこれ以上発展の余地がないのだろうか。それだと衰退するままなんだけど。

 

ただ、短歌は短歌で人口少ないんだよね。びっくりする。まだ俳句の方が人口が多い。何かにつけて言われるのは俳句だし。

 

つまり「理解しにくいが、どうせやるなら俳句」みたいな所がある。

 

Twitterとか流行ってるし、短歌絶対イケると思うんだけどな……俳句より短歌の方がとっつきやすいし表現の幅も広いのに。短歌の見向きされなさ凄いと思う。

 

でも俳句の腕もイマイチの段階な私が短歌の勉強するわけには……いつか勉強したいけどね。

 

自分にとって大切なのは「一語を大切にすること」だけど、だったら短文詩とかの方がいいかもね、って思う。

 

「ねえ、こんな月夜がずっと続けばいいのに」

 

とかね。ちょっと俳句っぽい。季語も入ってるし。

 

韻文詩としての響きはなくなったけどね。俗っぽい。でも川柳や標語ではないから、まだ川柳に比べたら俳句っぽい。紋切り型であるとこは微妙だけど。

 

ずっとこの月夜が続けばいいのに            秋雷

 

あ、これだと文字数的には俳句なのか。句またがりだけど。

 

散文型句またがりの句に可能性を見出したらいいのかな。でも韻文詩としての美しさは雲散霧消するわけなのだが。

 

どこまでも白い空秋雨続く               秋雷

 

こんな感じ? ちょい新しい感ある。すでに誰かがやっている新しさだけど。自由律俳句とか。さすがにあそこまでいくとはたして俳句なのか。

 

でもこれ一般の人良さわかるん? 結局、同じところをくるくる回ってない?