3月15日(木)、くもり

かつて龍と人が共に暮らした時代があった。

 

花の詠う時代だ。この世の全ては祝福され、天上の世界のように光り輝いていた。

 

何の苦しみもなく、何も苦しまない。

 

しかし龍は死に絶えた。世界に初めて死が訪れた、

 

死は病魔のように世界を覆った。あらゆるものから永遠が失われた。生まれては朽ちることを長い長い鎖のように繰り返す、呪いの世……

 

あの黄金の時代より幾星霜……この呪われた今の時代に、この私は生きている。 

 

 

と、何かよくわからんけど書いてみる。気分。小説の設定にしては私とカラーが違う。たぶんここで単発打って終わりではなかろうか。龍、ねえ。昔はそんなものに憧れた時代もあったか。今は蟲の巣食う死体とか動かした方が私の趣向に合うが。

 

爬虫類というくくりで言えば、人間文化と切り離せない存在だ。あらゆる文化圏で「巨大な蛇」は登場する。ギリシャのピュートーン、北欧のヨルムンガンド、エジプトのアペプ、ヒッタイトのイルルヤンカシュ、ペルシャのアジダハーカ、日本では八岐大蛇……など枚挙にいとまがない。

 

多くが神の敵として現れるのが興味深い。上記のものは全てそうだ。無論、ケツァルコアトルやティアマトなど悪ではない蛇神もいるが……

 

蛇神退治の神話は多く河川と関りあるとし、その河川の神への信仰から別の神(主に天候神)への信仰への変遷を意味するとか。あるいは川の治水工事を表すとか。

 

思えば川の氾濫は治水工事によってある程度防げるが、天候ばかりはどうしようもない。現在の技術を以てしても、暴風や大雨を防ぐ手立てはなく、逆に日照りに対しても無力だ。河川の神は殺せるが天候の神は殺せない。

 

蛇神退治とは人類の成長のために必要なことなのだろう。かつて4大文明は巨大河川のそばに栄えた。川は人々にとって偉大な恵みであった。だが、その大いなる川ですら人類の手によってコントロールを受ける。偉大な神を殺した瞬間である。人類は神(自然)と戦い続けてきた。

 

「脱皮しない蛇は滅びる」とはフリードリヒ・ニーチェの言である。その格言の通り、人類は成長し続けて今までやってきた。しかし私は思うのだ。蛇を本当に殺すことなどできるのだろうかと。

 

蛇を不死の存在だと考える文化圏は多い。脱皮を繰り返す行動を、死んではまた蘇ることのように解釈した。私自身、どうにもあの神秘的で不気味な生き物を、殺せる存在のようには思えない。

 

殺された蛇神らはどこかで生きているのではないか、と思えてならない。真の意味で蛇神を殺すことはできない、殺したような気分になるだけだ、と。

 

人の悪心を蛇に例える文化圏もある。キリスト教などはそのままであろう? 聖書で蛇と言えばサタンのことなのだから。思えば蛇神を殺して発展し続ける人類の、その尊大で畏れ知らずの増長心こそ蛇に呑まれたものでなかろうか。

 

彼らはそこに潜んでいるのではないだろうか。復讐する機会を虎視眈々と待ちながら――。

 

私はニーチェの言につけ加えたい。「脱皮しない蛇は滅びる、しかし脱皮し続ける蛇もいずれ滅びる」

 

かつてアステカ神話において、善神でありながら追放された蛇神ケツァルコアトルは言った「また帰ってくる」と。人類は蛇神を殺したつもりでいるが、彼らはいずれ帰ってくるのだろう。姿を変えて。もう一度、戦いの時代がやってくる。次の争いにおいて、人間が蛇神を殺せるとは限らない。

 

今のうちに、彼らに祈りを捧げるのも悪くはない。蛇の呪いは我々の中にとぐろを巻いて居座っているのだから。

 

龍の通り道のような春の空                  秋雷