5%

頑張って毎日のごとく俳句を詠んではいるが、気に入った句というは少なく、納得のいく句というのはもっと少ない。

 

たぶん100句作って5句あるかないかではないか。出現率5%の傑作である

 

しかし、5%あれば、1000句も作れば50句。1万句作れば500句になる。500句あったら句集が出せよう。

 

それに1万句詠む間には成長だってするだろうし。そうなれば出現率は5%から8%に上がっているかもしれない。消費税みたいだけど。

 

――と、ここまで書いて思ったのだが、なんだか最近このブログ俳句ブログみたいになってるなあ、と。俳句じゃん。小説はどこいった。

 

小説だって同じことで100作書いて5作ヒットすればいいんだろう。でも俳句と違って気軽に作成できるものでもない。1作書くのに1か月、2か月かかる。はあ……さらに私は集中力ないからなあ。

 

実は自分の中では、俳句ってのは「知的遊戯」だと思ってる。実はあまり創作だとは思ってないかな。5・7・5の語数に合わせて詩を作るわけで、幾万幾億の日本語から適した語を選んでそのスキマにうまいことあわせる。テトリスとかそういうパズルゲームっぽいイメージ。

 

蛍浮く深山の闇に染められぬ            秋雷

 

こないだの蛍の句のこれが、今んとこベストかな。
たとえばこの句で言えば上五の「蛍浮く」の部分だけでも「蛍飛ぶ」「蛍舞う」「蛍火や」「大蛍」とか、蛍の入る5音の語だったら何でもいいし、っていうか蛍である必要もないかもだしね。「鈴虫や」って言っても成り立つし。

でも「蛍浮く」なんだよね。闇と光の対比がしたかったわけで、蛍以外の季語は自分の中ではありえなかった。蛍を用いた上五としても例えば「蛍舞う」なんか美しい表現(であるからこそ紋切り型であって陳腐だが)なんだけど、「蛍舞う」では下五の「染められぬ」が響いてこない。前に述べたように「深山の闇」を黒い液体に例えているわけで、それを前提とすると、「舞う」という表現はおかしい。せめて「泳ぐ」となるんだけど、自分で「泳ぐ」よりも勝手に「浮く」としたほうが、見ているこっちとしては手が届かない感じが出て良い。

 

この句のミソは蛍の美しさではなく闇に染まっている自分自身なんだよねえ。ドロリとした自分の獣性というか、悪性というか、そういうのをどう表現するのか。仏教において闇ってのは煩悩にとらわれた人間のいる場所で、仏の救いの光が届いてないとこ、って表現が多い。神道においては黄泉のイメージが強い。そもそも黄泉の語源が闇であるという説があるくらいだし。深山は人里から遠く、「人間の領域」ではない「神・妖怪の領域」だよね。山の妖怪や海の妖怪が多いのは、「里・人間の領域」と対比したとき、「自然・神の領域」であるから。何が出てくるかわからない「深山の闇」というのを、自分自身の獣性になぞらえている。それは上五の「蛍浮く」、下五の「染められぬ」で液体に例えられている。そのドロリとした液体に沈んでいる自分が書きたかったものだ。

 

わずか17音で、散文でいうところの原稿用紙10枚やそこらくらいは表現しなくてはいけない。それは言葉を素のまま使っていては絶対に不可能。言葉同士を組み合わせて響き合わせ、連鎖反応させることではじめて出来上がる。だから上手い事出来上がるとパズルゲームで何連鎖もしてフィーバーさせるような快感がある。まあパズルゲーム苦手だからやんないけどさあ。

 

言葉のパズルだね。俳句は。知的遊戯。

 

そもそも獣性を闇に、さらに闇を黒い液体に例えるって発想自体、実は自分の中には無かったものだった。蛍で句を詠もうと思って、「蛍、蛍……」って言っている間に、「蛍、光るから……闇、だな」「闇だったら……」っていう風に連想してやっと辿り着いた。でもこれ普通に小説でも応用できるよね、これ。

 

獣性に支配されていくのを、「得体のしれない黒い液体に飲まれていくように、僕は――」って表現するとかさ。こういう表現力がもともと低かった人間だから、俳句を詠むごとに新たな発見があって、中々に面白い。絶対に文章力とか表現力はどこどこと上がってる。

 

1000句詠む。5%の傑作によって、きっと私はとても強まると思う。ま、俳句ばっかりになって小説がおろそかになったら本末転倒だけどねー。小説も書こう……。

 

水無月無明長夜に吠ゆる狗                 秋雷

 

闇の底で牙を磨く私は何と云う名の獣であろうか?

 

 

 

 

 

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