九月十六日が来て、私の経年数が四半世紀になる

 もうこんな歳か。

 

25歳。

 

なんかもっと大人だと思ってた。実際この歳になってみりゃ、全然子供だよなあ……

 

幼少の私が思い描いた25歳とは逆ベクトルの存在になっているように思う。きっと5歳の私が今の私を見たら失望するだろう。15歳の私は……どうだろう。意外に羨ましがるかもしれない。

 

人生50年なら半数。75歳まで生きたとしても3分の1。もう過ぎ去ってしまったことになる。あっというまじゃないか。とくに20歳過ぎてからの時間の経ちようったら。気を抜けば勝手に時間の方が駆け抜けていく。

 

赤の女王仮説か。

 

生物学好きだし、それにアリス好きだし。しかも厨二病治らない私は、この言葉が好きだな。

 

その場にとどまるために、全力で走り続けなければならない、と。

 

時間に置き去りにされる。刻々と変化してしまう。現状維持のためにすら努力が必要だ、って。

 

有性生殖なんて非効率的な繁殖法がなぜ選択されるのかって理由に上げられてた仮説だね。有性生殖は無性生殖に比べて二つの遺伝子を混ぜ合わせてるから、その過程でエラーが出やすい。つまり、進化しやすいんだよね。っても、原核生物とかの進化スピードの方がとてつもない気はするけど。まあつまり、その種を継いでいくためにはどんどん進化していかないと滅ぼされるってことなんだよね。

 

人間でもそんな感じ。会社とかさ、もっと大きく出れば国家とかさ。人間社会は闘争を求める。新兵器や新製品の開発によって、人間社会は成り立ってるんだ。需要と供給は刻々と変化してゆく。人の社会とてどんどん変わっていくのだ。ああ、私は「昭和からきた旧人類」みたいな平成生まれなんだけど、もう時代に置いてかれてやしないか? 私を追い越して、時代はどこへ行ってしまうのだろう。

 

 

それにねー。私が私であるためにすら、走り続ける必要があるんじゃないかな。というより、走らない私は私なのだろうか。いや、私らしいけれど。そう認めたくはないね。

 

たぶんね、人間の場合、走ろうが走るまいが、私は私なんだよね。でもさ、「走らない私」と「走る私」とどっちがカッコいいかって話さ。そりゃ後者に決まってら。

 

私だって男の子なのでカッコよさを求めて生きているのさ。誰にも理解はされないけれども、私だけわかってればいいさ。

 

薄鈍め秋の月すら駆けるのに               秋雷

 

25歳。人生半ば。こっからの25年をどう駆け抜けるかで私の価値が決まるのだろう。願わくば、価値のあるカッコいい私を。