おざなりに仕事をすればおざなりな結果しか得られまい

小説を書くことも俳句を詠むことと同じなのだ。

 

よく俳句で、「下五が空いたからテキトーな五文字で埋めるかぁ……」と思って詠む句がある。当然、できあがった句のクォリティーは低い。

 

良い句を詠むときには確信があって詠んでいる。プロの俳人からすれば甘いのかもしれないけど、少なくとも私にとっては直す余地がない。17音の全てがカチッと決まって響きあって、それ以上の手の出しようがなくなる。これが出来上がったときはサイコーに気持ちいい。

 

小説ではそういう経験が無い。そこがダメなんだ。毎度毎度ふわふわしたテキトーな文で埋めているから文章が嫌いになる。本当に「良い文章」が書けているなら、他人に見せたくて見せたくて仕方なくなるはずなんだ。カチッとした、名文が。

 

確信を持って文章を書くべきだし、必要に迫られて語を用いるべきだ。10万文字書くのでも17音詠むときと同じ心地でやらないといけないのだ。一字千金の心地でやるべきなんだ。

 

いっつもいっつもおざなりに書きすぎる。天啓が足りない。それは努力が足りないのと同じだ。駆け足が過ぎるのだ。自分に甘すぎるのだ。そんなことではダメなのだ。

 

三日月やイツマデモ不完全ノ人             秋雷

 

確信の無いままにどうでもいい語で紙面を埋めようなどとするから酷い出来になる。一語すら確信を持って置くべきなのだ。完全を目指すべきなのだ。これが私の作品だと胸張って言えないような不出来なものをウネウネと作っているようではどうにもならないのだ。

 

わかっては、いるのだ……。