トリスタンとイゾルデ
愛は不平等という点において万民に平等である。
この世にあるモノは価値のあるモノと価値のないモノに二分されるが、今の僕にとっては目に映るほとんどのモノが価値のない側に分類される。
恋は盲目という。今や僕にとっては、彼女以外に価値のあるモノを見出すのは難しい。あるとすれば父親くらいだろうか。しかし昨今の僕ときたら、あれほど敬愛してやまなかった父のことすら頭の中から追い出してしまっている。申し訳なく思うが、こればかりはしょうがない。
ああ、僕とて女なのだ。恋情に振り回される、女に過ぎないのだ。
そう再確認させられる度に凄まじい嫌悪感に襲われる。吐き気すら催す。彼女のことを想う都度、僕の薄い胸の中は甘酸っぱい感情と、ただ酸っぱい胃酸に焼かれて気持ち悪いことになる。
自分を壊したいと思う心と彼女を愛したいと思う心と、その他もろもろの感情がない交ぜになって、その結果できあがった真っ黒いナニカが僕の中を支配する。
憎い。
何より、自分が憎い。
聖ペラギア女学院。
コンクリート造りの堅牢そうな建築物群。高い壁に囲まれ、ある意味牢獄のようにも見える。いかにも人間味の薄い、無機的で機能的なデザイン。その場所こそ、聖ペラギア女学院であった。
いわゆる一流のお嬢様学校。全寮制の、陸の孤島。
みだりに男と接触できないようにとの配慮が尽くされたその造りが、血の通っていない城塞めいて見える。特に少し冷えを感じるようになったこの秋の季節には、なおさら無情の檻みたく感じることだろう。
とはいえ、聖ペラギア出身という箔は世俗に相当効果的であって、多少窮屈な思いをしても手に入れるべきものなのかもしれない。実際、入学金や授業料の高さの割には多くの受験生が毎年門戸を叩き、その結果、倍率の高い難関校に仕立て上げられている。
ペラギア生たちから『喪服』などと揶揄され大不評の漆黒の制服すら外部の者たちからすれば憧れの的だ。卒業生がネットオークションに出した制服が10万を超える値段で落札されたという。
少なくとも僕にとって『喪服』は『喪服』だ。それ以上でもそれ以下でもない。
その『喪服』に袖を通す。さすがに朝が冷える季節になってきた。素肌に冷たい生地が触れて不快だったが、無意味に上等な生地ゆえにその不快指数は低めで抑えられる。
聖ペラギア女学院初学年者専用寮の、僕に与えられた一室。僕の一日はそこから始まる。
生徒一人に与えられるにしてはかなり広めの部屋には、ベッドと勉強机と椅子、あとは小さな本棚しかない。我ながら生活感のないシンプルな空間。他の生徒たちは様々な家具を持ち込み、酷い場合には壁紙すら張り替えて思い思いにカスタマイズしているという。無駄なこと極まりない。
無意味に身の回りを飾りたいと思うことが女の悪徳の一つだと僕は思う。装飾などに価値はなく、そんなものに拘泥する暇があるなら学業にでも時間を割けばいい。
父の部屋はいつでもスマートで、無駄な物は何一つなかった。無駄を排除していった結果、あの形に辿り着いたのだろう。必要な物だけで構成された『最低限』の部屋は、彼の真面目さと気高い人間性を表している。
父がそうなのだから、僕とてそうあるべきだ。
『喪服』に着替え終わると、僕は部屋を出る。早朝の廊下は無人だ。みんなまだ夢の中にいるのだろう。この細長い空間を僕だけで独占しつつ、少し浮足立っている自分に気づいて、苦笑いする。自然と歩みが早まる。
目指すは――彼女の部屋。
ノックする前に少し心を落ち着けさせる。できるかぎりクールな顔を作ってみてから、僕は控えめにドアを叩く。
「迎えに来たよ」
「はーい、ちょっと待ってね」
すでに準備し終わっていたのだろう、すぐにドアが開き、彼女が顔を出した。
僕と同じく『喪服』に身を包まれているも、何となく彼女からは固い雰囲気がしない。いつも通りの彼女に、僕の胸の中で何かが波打つのを感じた。
春田花音。彼女の名があらわすように、一輪のたおやかな花のような、やわらかな女の子。
「毎朝ありがとう。私が行ってもいいのに」
「レディをエスコートするのが紳士の務めだからね」
なんておどけて言って、紳士らしく会釈する。
これで、精一杯の強がりだったりする。
クスッと笑みを浮かべて、花音は僕の手を取る。
「じゃあ、行きましょうか」
また、何かが波打つ。
花音は特待生制度を用いてペラギアに通っている。
彼女の家はペラギア生には珍しい、庶民の家だ。ことさら貧しいというわけではないが、良くも悪くも普通だ。ペラギアの凄まじく高い学費はかなりの重荷になるはずだったが、彼女は成績優秀であって、特待生制度を利用し、学費の大部分を免除してもらっていた。
だからこそ、他の生徒たちと違って「特別」で、僕と気が合うのだ。
顔は、整っているわけではないが、愛嬌がある。小柄で痩せ型。僕と彼女が並んで歩いていると大人と子供かというくらいに体格に差がある。
僕の相手にはふさわしくないみたいに言う奴もいるけど。何も僕は気にしない。
僕は花音が好きだ。
三棟ある寮のそれぞれに食堂がしつらえてある。朝夕の食事はそこで摂るのが普通だ。昼食用の食堂が学校内にもあるので、全ての建物に食堂が存在することになる。食堂だらけだ。
僕らは並んで食堂に入った。朝食にはかなり早めの時間であるため、生徒の数は少ない。ちらほらと数人がいるのみだ。できる限り静かな朝食を愉しみたいがために、僕と花音は食堂が解放された直後の時間に朝食をとることにしている。
ビュッフェスタイル。一流ホテルのそれのように大量の、多種多様の料理が並ぶ。朝からこんなにたくさんの食事を見せられて、食欲などわくものか。
父の元で暮らしていた頃は、朝食など一汁三菜あれば充分だった。家政婦が毎朝作ってくれていた。彼女が栄養価を考えた結果、和食中心だったが、何も文句などなかった。
豪華であればそれでいいのか。
立食ではなくトレイの上に皿を取って席に着いて食すのがここのルールだ。変な所で庶民臭い。和食は見当たらないのでトレイの上にパン、ベーコンエッグ、フルーツの順にとっていく。朝食なんてこれだけで充分だろう。それ以外は余分だ。昼飯を消化しきるまでのエネルギー分とればいい。
自分の分を終えて、となりを見ると、花音が自分のトレイを料理で満載にしていた。またか。さらに料理をとろうと手を伸ばすので、その腕をそっと制し、
「……花音、きみ」
「いや、だってもったいないでしょう」
「だからって、そんなに……食べ過ぎは身体によくないよ」
「だって……」
「太るよ」
「う……ふ、太らないよ……」
この料理の大部分が生徒の胃に入らずに廃棄されることを僕たちは知っている。唾棄すべき無駄だ。ペラギア生の中でもそのことに怒りを覚えるのはきっと僕と花音だけなのだろうけど。
結局花音はそれ以上料理をとらなかった。「もったいないもったいない」と遠い目をして呟くので、僕は笑いを噛み殺す。彼女はできる限り廃棄される運命の料理を救済したいのだ。
「裕理はたったそれだけで大丈夫なの。もっと痩せちゃうよ」
「我が家系は小食の家系でね。父親もこんなものだったよ。エネルギー効率が良いのさ」
「なんか私が非効率みたいな言い方……」
「体質だからね。それはしょうがないね」
ふん、とすねたような仕草をしてから、花音はトレイの上の料理たちを胃に収める作業を始めた。いつ見ても良い食べっぷりだ。これだけ食べても体形が変わらないので太り難い体質なのだろうか。多くの女性にさか恨まれそうだ。
僕はしばらく花音を眺めていたが、さすがに食事をしないのも不自然かと思い、パンをちぎって口に運ぶ。中はふんわりで外は良く焼けている。バターの香りを舌で感じる。味は申し分ない。どの料理だってきっとそうなんだろう。一流の料理人に作られた一流の料理たちは、そのほとんどが食されずに人知れずどこかに埋葬される。
……まるで。誰かさんみたいじゃないか。
「……裕理、どうかした?」
「何でもないよ」
表情に出ていたのか。花音が心配そうに僕を見ている。僕は自分のうかつさに嫌気を覚える。
「ちょっと君の顔に見とれてただけ」
なんて。これもただの強がりなんだけど。
くすくす嬉しそうに笑う花音を見て、ほっとする。これで正しいんだよなと再確認する。僕は間違ってはいない。
「劇の台本は進んでいる?」
「まあまあかな。期待しててよ」
「私にヒロインなんて務まるかな」
「大丈夫さ。脚本家と監督と主役が僕なんだから」
食器を片付けながらそう言い放って、我ながらおかしく思う。滅茶苦茶じゃないか。
聖ペラギア祭。言ってみれば文化祭なのだけれど、僕のクラスの出し物は早々に「劇」で、しかも僕が男役の主人公だと決まってしまった。多数決で。悪しき慣習を盾に有無を言わせない制度が多いこのペラギアで、偶に民主主義に走ればこのザマだ。
僕はカッコいい、らしい。
身長が高く、中性的な見た目。顔は充分以上に整っていて、短髪。それでいて一人称が「僕」で立ち居振る舞いまでご存知の通りなわけで、気が付けば勝手に王子様に祭り上げられていた。まあ、これもペラギアの慣習だから、と寮母が笑って言っていたのを思い出す。今年の王子さまは、あなたなのね。と。
僕は主役をやるにあたって二つ注文を出した。脚本と監督を僕がやるなら主役を演じる。その二つを僕以外の生徒が行うなら、僕は辞退する。彼女らは喜んでその条件を飲んでくれた。王子様の言う事は、絶対。なんだろう。
得体のしれない女学生どもの考えた、妙な寸劇を演じるのなどごめんだった。それに僕が監督なら配役だって僕の自由だ。
「劇はオリジナルなの?」
「いや、原作はあるよ。劇用に大幅改変するつもりだけど」
「なんてタイトル?」
「う、不吉だね……」
割とマイナーな物語だと思っていたのだが、さすが花音は知っていたようだ。学年主席の座は伊達じゃないという事か。僕は花音の聡いところが好きだ。
「不吉じゃないよ。よくある悲恋ものだろう。ロミオとジュリエットみたいなものだよ」
「ハッピーエンドの話が良かったな。私、イゾルデかぁ……」
物憂げに目を閉じ、再び、「私にヒロインなんて務まるかなあ」
「大丈夫さ、すでに君は僕のヒロインだろ?」
「そういうの、もう聞き飽きたよー」
花音は笑って背中を突いてくる。僕も笑う。
こうやってじゃれ合っている時が一番楽しい。
孤独になると嫌な事ばかり考えてしまうから。
花音と一緒だと、それがかなり減る。やっぱり僕は花音のことが好きだ。花音と一緒にいる時間が好きだ。
「ねえ、台本、出来上がったら最初に見せてよ」
「もちろん。君のために書いているんだからね」
「劇のためでしょ、もう」
また突かれて、僕たちは二人して笑う。幸福と辞書で引けば、今この瞬間と載っているだろう。
かつて僕は全ての女を憎んだ。それは自分も含めてであった。
このペラギアという牢獄に入れられた時などいたく絶望したものだ。何せ生徒から教師、事務員まで全員女しかいないのだ。地獄じゃないか。ついに父親に見放されたと思った。女だから。僕が女であるがために。
父親は「おまえのためだ」と言っていた。彼がそういうのであれば僕に逆らう権利はなく、逆らうだけの気概も無かった。彼はいつだって正しいのだから。僕はついに処分されたのだ、それが彼の正しさなのだ、と。
今だからこそ思う。父親は本当に僕のためを思ってここを選んでくれたのだと。
思えば彼が僕に嘘をついたことなど無かった。僕にとって彼は規律であり法だった。かつて「何故、法を守らなければならないのか」と彼は僕に訊いたことがある。
秩序のため。僕はそう答えた。
「法を守った方が幸せになれるから」彼はそう言った。法やルールは人が作ったもので、何故作ったのかといえば、それは人を幸せにするためなのだ、と。幸福を追求して努力することこそ、人間と獣を分ける壁なのだ、と。
かつての僕には理解できなかったが、今なら分かる。この凄まじき古びた慣習の檻の中でルールに準じているのも、そう悪くない。花音がいるから。
花音と出会うために、僕は、きっと、ここにいるのだ。
花音と出会えたが故に、様々な呪いから解き放たれたのだ、僕は。
ただ――。
「……」
僕はモニターに近づきすぎていた顔をしかめさせ、天井を仰ぐ。原作アリだから楽だと思っていたが、中々大変な作業じゃないか。
僕は自室で脚本を書いていた。慣れない作業に肩がこる。集中すればするほどに不思議と背が曲がってモニターに近づいていく。目が疲れる。今の僕は淑女らしからぬ姿勢をしているだろう。指導教師がここにいたなら教鞭で手の甲を打たれること必至だ。
「トリスタン、君がこんなに手ごわいとは」
などと呟いて独りで笑う。疲れておかしくなっているのかもしれなかった。
トリスタンとイゾルデという物語自体、すでにワーグナーが楽劇に仕立てあげているのだが、それをそのまま学生の劇に転用することは不可能であった。かなりレベルを落として、あと尺も足りないのでかなり切り詰めて……となると、元のテーマがどんどん削られて薄っぺらくなっていく。
ペラギアの劇なんだから、内容が薄くてもしょうがないと甘やかす僕と、花音がヒロインを演ずる劇だからもっと頑張れよと叱咤する僕とで、脳みそが引き裂かれてしまいそうだった。
騎士道を重んじ、主君への忠節を誓っていたはずのトリスタンが、主君の妃となる王女イゾルデへの愛に苦しむ。騎士道か、愛か。その二つの間で引き裂かれそうになる彼こそ、今の僕みたいなものだ。
死の薬と偽られた愛の薬――。
結局、トリスタンは愛に殉じた。かつての僕なら騎士らしからぬ彼のことを自分と重ねることなどなかっただろう。悲恋だなどと、言って美談のようにしているが、不義密通ではないか。不義の愛などルール違反ではないか。
愛は理屈ではないのだ。
もちろん、不義の愛に走った結果、それは明るみになり、トリスタンは死ぬ。ハッピーエンドにはほど遠い。間違った行いには報いがある。とはいえ、愛に殉じた彼は不幸だったと言い切れるのだろうか。
騎士道を男性らしさ、愛を女性らしさとするなら、その二つの狭間で揺れる彼は、確かに僕に似る。
かつての僕は男性らしくあろうと思っていたが、最近それは間違いだったんじゃないかと感じるようになった。そもそも本来の僕は異性愛者だ。花音は特例中の特例だ。そして自分を男だとは思っていない。僕はどうしようもなく女だ。
自分の中にある女である部分を否定したいがために、男性らしさに逃避していただけだった。
最近は、あの女のことすら、理解しようとしている自分がいる。許せはしないものの、共感は、ほんの、ほんの、ほんの少しできる。ただの悪だと思っていた過去の僕からは信じられない。これは進歩なのか退化なのか。
愛は理屈ではないが、規律を逸すれば報いを受ける。しかし愛を貫き死ぬことは不幸か。
「……不幸か?」
僕の中でまだ答えは出ない。僕の中の理性は、過ちは過ちに過ぎず、と言う。しかし僕の中の女が、愛は絶対である、と言う。
まだ、答えが出てない以上、それを書こうとしても堂々巡りになる。目をつむってうーうー唸れば、闇の向こうに花音が浮かび上がる。僕は隙あれば彼女の事ばかり考えてしまう。
僕と花音との関係は、いたく健全なものだ。口づけすらしたことは無い。手を繋ぐくらいはするけれど。当来、異性愛者である僕は、彼女に対して性欲などわかない。
プラトニック・ラブ。
しかし肉体的つながりのない関係というものは、ずっと続けられるものだろうか。不安に襲われる。
どちらか片方が男だったら、こんなことで悩むことは無いのだろうけど。
花音も同性愛者と言うわけではなさそうだ。この二人の関係は、ペラギア内という特殊環境だからこそ成り立つものだ。もしかしたら、いずれ花音にも男の恋人ができるのかもしれない。ペラギアを卒業すれば、彼女はこの女で構築された牢獄から解き放たれる。その時僕は平静でいられるだろうか。
ずっとは、たぶん続けられないんじゃないか。この3年ぽっちの、限定された関係なんて、愛なのか。
「愛ってなんだ……」
目を開ければ花音の姿は消え、無機的な天井がそこにある。
僕と花音は女同士だ。でも、友達だとか、親友だとか、そういう言葉で僕たちの関係を表したくない。この心のうちに感じる気持ちは、友情ではなく愛情だと、僕はそう思いたい。しかし本当に僕たちの関係は恋人で、二人の間をつないでいるのは愛なのか?
そういうことを考えれば考えるほどに、何だかとても恐ろし気に思えてくる。怖いのだ。僕はこの関係が終わる時が来るのが怖い。僕が大切で、とても貴重だと思っていた物が、実のところ大した価値のないものだったと知る日が来るような、そんな気がして、怖い。
あの女も怯えていたのだろうか。
「僕は女だ……」
悲しいかな、あれほど憧れ、あのように生きようと思った父の姿は僕の中にはいない。あの女の血こそ感じる。僕はやはりどうしようもなく女で、やっぱり、やるせない。
パソコンの電源を落とし、ベッドに身体を投げ出す。最近、何かの反動を食らったかのように、気持ちが暗くなる。孤独だといつもこうなる。花音、花音……。
次の日、花音は手を骨折した。
あの女、と僕が言うのは、自分の母親のことだ。
僕が5歳の時に、浮気したあげく、父と離婚した。
自分が悪いはずなのに父を口汚く罵る母と、ただ無表情のままに粛々と離婚の手続きをしていた父はまさに対照的だった。
あの時、僕は父のように理性の人になろうと決めたのだ。母のような、女の悪徳が服を着て歩いているような存在にはなるまいと。
自らの愛を貫いた結果、僕や父を裏切った母――当時の僕にとってあの女は、悪だった。父は一言も母のことを悪し様に言わなかったが、そもそも彼女のことを記憶から抹消しているようにも思えた。合理主義者である彼からすれば、彼女は無駄で、彼女のために感情や記憶のリソースを裂くことはしたくないようだった。
あれからだ、「私」が「僕」になったのは。
女と言う生き物が全て悪徳の詰まった肉袋に思えた。不合理であり、ヒステリックであり、感情で動く、愚かな人種。僕は父のようになりたかった。父はそういう意味では悪徳から切り離された崇高な存在に思えた。だから僕は男のように振る舞っていた。
別に、女がすべて愚かというわけではあるまいに――。
一度、中学生のころに母に会ったことがある。当時通っていた学校の入り口に待ち伏せされていたのだ。幼少の記憶の母は精神は醜くとも見た目は整っていたはずだが、あの時会った母は白髪だらけの小太りなおばさんだった。わずか十年でここまで人間は歳をとるのかと思ったものだ。父はその十年でゆっくりと歳を重ねていた。父とあの女では流れた時間の質が違うのかもしれなかった。
猫なで声で話され、おまえのことを考えなかった日はないよ、と言われた。そして父の悪口を僕に吹き込んだり、この十年でどれだけ自分が苦労したかを延々と語っていた。
気持ち悪かった。
自分から裏切っておいてまた近づこうとする神経も、すでに許されたと信じている図太さも、何より、自分と血がつながっているのかと疑いたくなるその醜さが、気持ち悪かった。
今だからこそ思うのだが、全ての女性が悪徳にまみれているわけではないし、そもそも男だって愚かな者は愚かだ。
そして、おそらく、僕とて悪徳にまみれた醜い女なのだ。
間違いなく僕は母の子だった。どうあがいても、その血からは逃れられないのだ。
「ねえ、もう読んで良いの」
「うん、まだ細かいところは詰めたいけどね。ちょっと君の意見が聞きたくて」
花音の骨折から三日後。彼女は僕の部屋に遊びに来ていた。パソコンの前に座って、僕の書いた劇の台本に目を通している。
あの日、花音は階段から滑り落ちて、手と指の数本を骨折した。身をかばおうと突き出した左手がおかしな方向で床にぶつかってしまったのだ。誰もそばにはいなかった。僕は誰かが突き飛ばしたんじゃないかと彼女に訊いたのだけれど、花音は自分の不注意だったと力なく笑って言っていた。彼女がそう言うならそれ以上何も言えなかった。
この三日、ほとんど僕は花音と一緒にいた。骨折したのは利き手ではない左手だったけれど、両手あって当たり前だったのが片手しか使えなくなるというのはかなり不便だった。僕は彼女の介助役だ。
たとえば缶ジュースを開けるときですら、片手だけでは開けづらい。片手でもできそうなことのほとんどは、意外と両手を用いて行われていることが多いということがよくわかった。
彼女はイゾルデ役から降りた。
今、花音は僕が簡素に書き上げた台本を読んでいる。花音がもう関わらないのであれば、苦悩するなど無駄であった。簡潔に書き上げた僕の原稿はさぞ薄っぺらいだろう。学生レベルの劇なんてそんなもんだと言ってしまえばそれまでだろうが。
もはや劇などというどうでもいいものに関心がない。
僕はベッドに座って花音の背中をぼんやりと眺める。
愛とは何だろうか。
僕の思う愛の答えが出たとして、それは花音の思い描く愛と同じだろうか。
そして。
今、僕が抱えているこの感情は、花音が僕に向ける感情と等価であろうか。
はたして愛は平等か?
僕ばかりがただ苦しんでいるのではないか?
ワーグナーはかの楽劇においてトリスタンとイゾルデに死の薬と偽られた媚薬を飲ませた。それによって二人の愛に火が点く。
ワーグナーは「愛とは死である」と結論を導いたのだろう。実際、楽劇において二人は愛を深めるごとに死へと近づいていく。
愛は平等でないが、死は平等であるし、何より、死とは永遠であり、停止だ。
永遠の愛を誓うのであれば、二人してその場で死んでしまえば確実なのだ。
どうせ、この不均衡な愛、それがいずれ閉じられてしまうならば――。
愚かな考え。愚かな女。
僕は頭を振って、立ち上がると、花音の背後に立つ。原稿を集中して読んでいるらしく、彼女は僕に気を留めない。
大好きな花音。
その、白くて、細くて、無防備な首筋――。
僕は自分が憎い。