卒業。

この山奥からの、卒業。

 

今の私は、フワフワした気分だ。悲しくもなく、嬉しくもなく。幼少のころ味わった、祭りの前日の、少しワクワクするような、少し怖いような、そんな感覚に近いかもしれない。

 

今日、私は共生舎を出ていく。

 

 

私は、2017年の11月7日に共生舎に住み着いた。あれから2年と9か月だ。私の人生の約10分の1に相当する。長い期間のはずなのに、一瞬だったように感じる。まるで竜宮城だ。

 

来た当初は当然のように新米山奥ニートだった私も、すっかり古参組に数えられるようになってしまった。だからこそ、出ていくと云うのが、とても不思議な心地だ。何せ山奥に居ることが当たり前になった身だ。山奥ニートでない自分自身というのがどんなものだったか、少し記憶が朧気である。未だに出ていくということが、自分の事として受け入れられていない。フワフワした、夢か、嘘か。とにかく現実の事として受け入れられていない。

 

2年9か月もいれば、当然のように何人もの山奥ニートとの別れがあった。今までの私は見送る側で、その都度、何らかの喪失感を味わってきた。とくに仲の良かったものがいなくなる時の感覚など、心に走る苦みで眠れなくなるほどだ。みんな笑顔で見送ってきたものの、一緒に暮らし、一緒に笑ってきた仲間との別れは毎度毎度痛みを伴った。だって、当たり前だったんだ。彼らがそばにいたことが、当たり前だったのだ。それが、今日からいなくなる。寂しい、寂しい、寂しい……

 

今日の私はその逆だ。そばにいた1人がいなくなるどころではない。私が出ていくと言う事は、私の視点からすればみんながそばからいなくなるということだ。場所も、空気も、水も、全部失う。季節ごとに咲く花も、鳥のさえずりも、身体を這ってくる虫たちも、美しい月も、星も、鬱陶しい湿気も、染み入るような寒さも、何もかも、ひっくるめて、失う。

 

だが、喪失感という喪失感はない。苦しみも、痛みもない。ただ、心が落ち着かなくて、そわそわする。不思議な、心地だ。

 

人に山と書いて、「仙」である。山奥ニートはよく仙人を自称し、人里を「下界」と呼んだ。蓬莱山のてっぺんで暮らす神仙の気分だ。実際、いわゆる俗世のことに関心を失う。かつて見ていたニュースやワイドショーは、山奥ニートの身からすれば、なんだかみんな怒っているように思えて、好きになれなかった。山奥は世間から切り取られ、隔離された地で、ゆえに穏やかでいられた。

 

しかして、それはきっと人間らしくない心地だったのだろう。仙人か、天狗か、あるいは狐狸か。そういう人間ならざる者であるが故の、平穏だった。だって人に興味がなかった。人の世界や、人の社会に対して全然関心が無くって、とにかく山での暮らしが心地よければそれでよかった。人間であることを放棄したが故にたどり着ける平穏だった。

 

そして、また私は人間に戻るのだ。

 

神隠し、天狗攫いにあって帰ってきた人、あるいは竜宮城から帰ってきた浦島太郎、

あるいは狐に化かされた間抜け。そういう心地に近いのではなかろうか。周囲はあれこれ騒ぐけれど、当人は何のことやらさっぱりで、ぼんやりで、よくわかっていない。だからこんなに心に波が立たないのだと思う。痛くも痒くもない。でもソワソワする。

 

 

共生舎に来る前の私も、相当ひどいものだったと思う。見識が狭かったし、何より、生きることに余裕がなかった。「大丈夫じゃない人」だった。

 

学生時代といえば何度も触れたように「闇より黒い暗黒世界」で、どんぞこの日々だった。あのころ何度死のうと思ったか数えられない。それどころか、何度他人を殺してやろうかと思ったものか……。

 

その後もダメだった。卒業した後1年家に引きこもっていた。あの頃の精神状態は相当イカれてたと思う。イカれてたことに自分で気づいておらず、自分は真っ当で世界が間違っているのだと思い込んでいたアタリがもうただただ酷い。なかなかのトチ狂いっぷりだった。

 

その後、父親に引きずられて家業手伝いをした。それは良い経験だった。間違いなく、その経験は私にとって財産だ。ただ、顔を合わすといえば父親ばかりで、生活が小さくて狭い世界で完結していた。あの生活をずっと続けてもそれ以上に得られるものはなかったんじゃないだろうか。だから私は決心して、山に行くことにしたのだ。

 

 

あの頃の自分たちは「大丈夫じゃない人」たちだった。どこからしら欠損があって、全然大丈夫じゃない。そのくせ、自分のどこが悪いのかよくわかっていない。そんな調子だ。

 

でも今の私は違う。

 

こんなに美しい景色があることを知って、息を飲む星空があることを知って、ただの水がとっても美味しいことを知って、虫に身体を這われてもどうってことないことを知って、気のいい、大好きな仲間がいる生活がとっても貴重で素晴らしいものだと知って、何より、それら全てを提供してくれる場所が、この地球にあることを知った。

 

大丈夫だな、と思う。今の私はもう、「大丈夫な人」だなって。だって知ってるのだ。共生舎の事を。だから、大丈夫だ。

 

 

 

物語において不思議な世界に旅立った主人公は、また現実世界に戻ってくる。いわゆる「往きて帰りし物語」だ。しかしその主人公はもはや元の主人公とは別人だ。不思議な世界での経験が、主人公を別人へ変えてしまう。多くの場合それは良い変化で、「成長」であると言って良い。

 

私だってそうだ。

 

山奥という、人の世界から隔絶された不思議な世界で、山奥ニートという不思議な民と共に暮らした経験を得た私は、もはやここに来る前の私とは別人だ。今の私こそ、過去最高の私であり、いかなる私だってかなわない。今日の、この私こそが、最も優れた私だ。一番好きな私だ。だから、これから私は死なないし、誰も殺すこともない、自分を守るために誰かを傷つけることも無いし、きっと笑って生きることができる。大丈夫な私だ。

 

そう、月並みで紋切り型の表現で恐縮だが、きっと始まりなのだ、これは。だから喪失感がないのだ、きっと。私は山奥を失ったのではない。たくさんのモノを得て、これから私の人生が始まるのだ。世俗にて、人に戻り、されどかつての私とは違う。今までに無い私の物語が、今日から始まるのだ。失うものなど何もないのだ。喪失感なんて感じる必要もないのだ。

 

山奥に対してはありがとうしかない。ただただ、感謝しかない。みんな大好きだ。絶対に、時間をつくって遊びに行くよ。

 

たぶん、今の私の心はとっても澄み切っている。と、同時にごちゃごちゃしている。カオスだ。もっと整理整頓された文章を書きたかったが、とてもじゃないがそんなものを書ける状況にない。読みづらいだろうが、勘弁していただきたい。

 

 

振り向けば家族のような青嶺かな             山奥ピエール