田舎における余所者への排他性と、客人信仰を比較したうえで見えてくる将来的な発展性について――ヨソモノとマレビト――

なんか小難しいタイトルをつけてはみたが、いつも通りの山奥ピエールなのでご安心を。

 

共生舎の周囲の環境について考えていた。

 

我が共生舎のある五味集落は、もはや山奥ニートの数の方が周辺住民の数よりも多い。周辺住民の年齢も高齢化が甚だしいため、共生舎が存在すること以外はよくある過疎集落であると言えよう。

 

ここで考えていただきたいのは、もし貴方がこの集落の住民だったとしたら、という話だ。

 

年寄りだらけの滅びゆく集落に、若者がやってきた。それだけならいいが、働きたくないと言い出す。さらに働きたくない若者を集めてここで暮らすとのたまう。

 

実際に働きたくない若者が遠方よりぞくぞくと集まってくる。今やここの住民の数よりも若者の数の方が多い。彼らは働き盛りの若者なのに働かずにぐーたらしている。しかし若い男ばかりで、体力はあるだろうし、数が多い。

 

これ、恐怖を感じないだろうか。

 

村モノのホラー小説にできそうなシチュエーションである。もはや山奥ニートによる集落の侵略であると言って過言でなく、山奥ニートどもが乗りだせば周辺住民を簡単に制圧することも不可能ではない。何を考えているかよくわからない、自分たちとは世代差の激しい若者で、余所者で、それも怠け者なのだ。恐怖を感じずにいるほうが難しくないか?

 

我々、よく受け入れられたな……村八分にされたりしててもおかしくないのだが……

 

よく小説や漫画やアニメや……ようするにフィクションの世界において、田舎は都会と違って人間が暖かいイメージがある。

 

だが所詮、それはイメージでしかない。

 

実際に田舎に移り住んでみて、そのイメージを覆されたという者も少なくなかろう。田舎は閉じられたコミューンだからこそ人間関係が密であり、密であれば密であるほどに摩擦が多く生じる。やたらめった周囲の家の事情を知りたがる情報戦が繰り広げられ、少しでも悪い部分を発見したなら鬼の首を取ったように喜んでその情報を喧伝して回る。悪口や影口のオンパレードであり、少しでも隙を見せれば自分が槍玉に上がるという緊張感の中延々と情報戦を繰り広げる。私にとっての田舎とはそんな感じだ。

 

実家が割と田舎だったからこそ、それはすごく感じた。

 

田舎から都会へ移った友人が「都会の方が人が優しい」と言っていたのが印象的だった。都会は人間関係が粗であり、他人に無関心である。であるから情報戦は繰り広げられない。自分の人生だけに必死である人の方が多い。しかし、人間が多いからこそ、他人を気遣える優しい人の存在数も多い。

 

彼は東京で下駄の鼻緒が切れてすっころんだ時の話をしていた。かなり派手に転び、したたかに身体を打って苦しんでいたら、そばにいた人がすぐに駆けつけてきて、「大丈夫ですか、肩を貸しましょうか」と言ってくれたと。これが田舎だったら同じように駆けつけてくれる人のいるだろうか、と。たしかに、トンマな奴だとあざ笑いの材料にされるだけやもしれぬ。

 

その時彼は「しかもその優しい人はかわいい女の子だったんだよ!」と言っていたが別に羨ましくないし悔しくもないしどうでもいいし、泣いてなんかいない。

 

さて、話を五味集落へ戻そう。

 

現実問題、共生舎というのは凄まじく怪しい集団である。働き盛りの若者が働きたくないといって十数人あつまって集団生活しているわけである。怪しくないわけがない。よく宗教団体との関係を疑われる。あと公的資金の投入とかも。共生舎は無宗教だし公的資金は何ももらってないぞ。でも疑われてもしょうがないなとは思う。わけわからん団体だからな……。

 

その凄まじく怪しい集団を、五味集落の住民たちは暖かく受け入れてくれている。

 

通常、田舎は余所者にとても厳しいというのは有名な話だ。余所者を排除しようと嫌がらせなどをおこなう者もいるという。しかし五味集落では排除どころか受け入れてくれている。ありがたい話だ。

 

私が聞いた話だと、もともとこの辺は林業で栄えた場所だという。そして林業に従事するため色んな所から移り住んできた人々で作ったのがこの五味集落なのだ、と。つまりそもそもが余所者で構成された集落であるため、来訪者を受け入れることに違和感がないのだそうだ。

 

そういう土壌があるからみんな優しくしてくれるんだな……そうでもなければこうはならないか……。

 

 

田舎における存続のための戦略は、保守型戦略と革新型戦略の二種に分けられると思う。

 

保守型戦略は文字通り、今の生活を続けるための戦略であり、新しいモノ、コトを嫌う。当然、余所者はやり玉にあげておく。新しい手法なんかも嫌うし、伝統を重んじる。良くも悪くも日本人的であって、今や多くの田舎はこのタイプの戦略をとると思う。まあ、流行り病なんかは余所から持ち込まれるものだから、余所者を出来る限り入れないようにしようというのも防御策として有効だったんだろう。わからないでない。余所者は「エイリアン(未知の人)」であり「インベーダー(侵攻者)」である。それを排斥すればとりあえず今の生活を脅かされることは無い。今をそのまま存続できれば良いという考え方もわからないでない。

 

革新型戦略は進化するための戦略であり、新しいものを受け入れる。来訪者は歓迎される。客人(マレビト)信仰という言葉があるが、かつて日本の多くの地域で来訪者を歓迎する信仰があったという。生物学的に見れば、閉じられたコミューンでは遺伝子のバリエーションが一定のままであり、いずれ均一化していく。ここに遠方から来訪せし客人の新たな遺伝子が加われば、遺伝子の多様性が保たれるわけだ。ただ、来訪者は不和をもたらす可能性もあるため、それを受け入れるのには勇気がいるだろう。

 

来訪者を災厄をもたらすヨソモノとして排斥するか、マレビトとして歓待するか。どちらにも一長一短あり、どちらが優れているとも言い切れないが、しかし現在日本の田舎に適したのはどちらか、というのは目に見えている。

 

何故なら我が国において都会への人口集中が進み、田舎は穴あき状態になっているからだ。過疎が進み、存続不可能な自治体が多く存在する中、来訪者をヨソモノとして排斥する田舎に将来性はない。必ず滅びる。

 

将来的な発展性という点においては革新的戦略を選択するほうがよい。我が五味集落においても、10年後、20年後も、共生舎さえあればまだ人間は居るだろうから。我々客人の存在によって、ここは存続し続けられる。

 

まあ、でも日本人と言う人種は自らの首を進んで絞めるのが大好きなマゾヒスティックな人種であるため、保守型戦略を選択して滅びるを潔しとする田舎が多数存在する。だから20年後にはきっと大多数の田舎が滅んでいるだろう。どうでもよい。私にはかかわりない事だ。滅びればよい。滅びることが悪い事だとも言いきれぬしな。

 

まあ、これ国家規模で考えると移民の受け入れとかそういう話にもなってくるんだけどな。そこまでいくと軽はずみで考えていいのかとも思う。日本人同士なら文化の差も少なくそこまで不和は大きくならないが、海外からの移民となるとホント「エイリアン(未知の人)」で「インベーダー(侵攻者)」だからな。来訪者から良い影響ばかりを得られるなら良いが、それは楽観視が過ぎるというものだろう。個人的には国家規模では保守的であって欲しいと思ってしまうな……。あまりよくない考えなのかもしれないが……。

 

だからこそ来訪者をヨソモノとして恐れる気持ちは重々理解できるんだよな。だからまあ、その選択をとる田舎を否定はせんよ。でも私たちはマレビトとして歓待された側だから。共生舎としては、来訪者はマレビトとして歓待するよ。我々はそうあるべきだ。自分たちが受け入れてもらったのだから、我々も受け入れる度量を見せねば。

 

ま、でもアカラサマに不和をもたらす人には回れ右してもらうけどな。うちも共同生活だし、その生活基盤を根本から破壊しにくる者まで受け入れてやるだけの余裕はない。まあ、さすがにそんな酷い人はあまり見たことないけれど。普通はわざわざこんな山奥に来たがらないからなあ。

 

冬夜明け村の気温がまた上がる                   秋雷

 

とにかく、受け入れてくれた五味集落には感謝しかない。ここまでニートに優しい田舎はさすがに他にはないと思う。これは共生舎の自慢できるポイントの最たるものではないかと私は思う。こんなわけわからん連中受け入れるだけの度量の広さって凄まじくないか…?