山奥ニートだけど、山奥ニートについて私がどう思っているかを語る

こればっかりは他の山奥ニートとは考えが違うと思う。あくまでも「私にとっての山奥ニートって何か」って話であって、他の山奥ニートに拡大させて考えてはいけない。たとえば、この考えをバナシさんに当てはめてはいけないと思う。あくまでも私が何故山奥ニートしてるのか。自分にとって山奥ニートって何かって話だ。

 

 




で、一言で表すなら

 

サナギ

 

である。

 

 

 

さて、昆虫類には大雑把に分類すれば「完全変態」する種と「不完全変態」の種がある。

 

幼虫→サナギ→成虫

 

これが完全変態で、

 

幼虫→成虫

 

と、サナギの期間がないものが不完全変態だ。

 

このような昆虫類と同じように、日本人種においても完全・不完全変態が存在すると私は思っている。

 

学生からすぐに社会人になるものが、「不完全変態

 

そうではなく、学生から社会へ出るのにさらに一段階挟まなければいけない者が「完全変態

 

私たち山奥ニートの大部分は、この完全変態の方じゃないかと思う。少なくとも私はそうだ。

 

社会的猶予……いわゆるモラトリアムなんて言葉がある。これは社会が認めている「大人になるために与えられている猶予期間」で、基本的には学生の間を指す。けれど、モラトリアムがモラトリアムとして機能していない人間だっていると思うのだ。

 

自分なんかは学生時代は暗黒の時代であって、思い出したくもない。「無くて良かった期間」とまで言っていいだろう。その後、親元で働いていたころのほうがよっぽど自分にとって必要な期間だったろうと思う。私にとって学生の期間は、「大人になるための準備期間」として機能していなかった。

 

それでも社会は学生でなくなったのなら働くことを求めてくる。同調圧力だとか、世間体だとか。そういうので、ある意味、「大人になること」を強いられる。

 

でもさあ、そうやって無理やりに大人にさせられて、ちゃんとした大人になれるものなのかね。いや、そりゃ大部分の日本人にとってはそれが正しいことなのかもしれないけれども、私を含めた一部の日本人には当てはまらないんじゃないかな?

 

昔は簡単だった。通過儀礼を過ぎたら大人だ。就ける仕事だって、親や先祖によって決まっていて、基本的に狭い村の中だけで人生が完結していた。少ない選択肢の中だったら迷うこともない。

 

でも今は違う。選択肢は多い。いくらでもある。そんな中で制限時間を設けられて、さあ自分の人生を決めろと言われて、ちゃんと決められる人間ばかりじゃないって。迷って、迷って、どうしようもない人間だっているんだって。

 

だからさ、今の私はサナギだって、そう思うのですよ。ちゃんとした成虫になるために、一度、幼虫からサナギになって準備する。その期間。

 

サナギってさ、中身、ドロドロなんだって。幼虫はイモムシみたいなやつだったけど、それが一度溶けてドロドロになって、新しい体に生まれ変わる。サナギ前とサナギ後じゃもう全然違う生き物になってしまっている。でも実は、幼虫の時代にも「成虫原基」っていう成虫を形作るための芽のようなものがある。0から作り直しているわけではないんだって。面白いよ、これ。

 

子供からニートを経て大人になる。でも実は子供の時点で大人になるための芽は存在してる。才能とか、特性とかね。でも自分がどういう大人になるべきなのか、よくわからない。自分の大人への芽がどんなものなのかわからない。だからニートの期間に、いろいろ考えてみる。自分って何なのか。どういう人間なのか。どういう大人を目指したらいいのか。そういうのを考える期間。それが自分にとっての山奥ニートだ。

 

完全変態の昆虫の多くは飛べる。私は今、飛ぶための翅を作っているだけ。他の虫たちは、わざわざ作らなくったって最初から備え持っていてすぐ飛べるようになるのかもしれないけれど。でも、自分が飛ぶためにはこれが必要なプロセスで、それをとばして無理やり飛べば、いずれ破綻しちゃうんじゃないかって、そう思う。

 

ニートって言葉を肯定的に用いる人に限って、「働くことだけが幸福だろうか」みたいに言うけれど、それを突き詰めていけば、労働者や社会人の否定へとつながっていく気がする。自分はそういうのは良くないと思うんだ。自分の父親が、必死に働いて妻子を養っていた姿を見てきて、それを否定する気にはなれない。犯罪行為とかそういうのは論外だけど、ちゃんと仕事している人なら誰であれ社会に役立っている。需要があるから供給があるんだ。働いてる人のことをアレコレ言う気にはなれないし、というか、むしろ尊敬すべきことじゃないかい?

 

それに、心理学的に幸福ってのは「承認欲求」を満たされた状態のことなんじゃないか? 仕事を頑張って、それが誰かや社会なんかに認められた時こそ、最大限に承認欲求を満たされた状態になってるんじゃないだろうか。

 

別に、「働かないという選択」を否定する気はないけど、とはいえ「働いている人」

の方が「働いてない人」より社会に益してる分偉いし、選択肢だって多いと思う。どっちになった方が良いかって、そりゃ「働いている人」の方が良いに決まってる。

 

バナシさんと自分の考え方の差ってこの辺だろうと思う。自分は今がサナギなだけで、いずれは成虫になるつもりだ。でもバナシさんはサナギのままでいいと思ってるだろう。バナシさんは普通のニートでないし、いろいろ特殊だから「あれはサナギか? ともすればもう成虫なのでは?」と思えなくもないけど。

 

とかく、自分としては、学生と社会人の間に、「ニート」を挟んでみてもいいんじゃないかって思っている。そうしないとちゃんとできない人間だっているんだって。みんながみんな杓子定規っていうか、既製品っていうか……あるべき道をあるべき様に歩けるわけじゃない。それができない人間だっているけど、でも道を歩く権利を喪失しているわけでもない。立ち止まってもいいじゃん。それから時間をかけていっぱい考えて、自分の歩き方を決めたって、いいじゃん。そういう奴がいても、いいじゃん。そういう奴を受け入れられる程度の余裕は、この豊かな先進国にはあるはずだろ?

 

ニート」挟まずにすぐに社会に出ていける人の方が良いに決まってるけど。でも、そんな人ばっかりじゃないんだって。「ニート」挟むと社会に拒絶されちゃうけどさ。でももっともっと高く飛べる翅を、作れるようになるかもしれないじゃないか。

 

他の山奥ニートがどう思っているかは知らないけど、自分にとっての山奥ニートはサナギの時間だ。いずれ成虫になる。だから私も、いずれは社会にまた出ていく。いずれは結婚とかもしたいし、子供だって欲しい。山奥ニートだからって人生諦めてますってわけじゃないんだよ。ただ、自分に適した社会の出方がよくわかんないだけ。それさえ見つければまた羽ばたいていくさ。