人里に降りたがゆえに知る山奥の本質

距離を置いてはじめてわかることがある。

 

 

思うに、共生舎での暮らしは老後の暮らしではないかと思う。

 

お金ではない、幸福。

蛇口から出る水は天然の湧き水。それで炊くご飯は当然のように美味である。インスタントコーヒーすら美味である。ミネラルのなせる技か。

 

虫や鳥の鳴き声で目が覚める。山の空気は清々しく、フィトンチッドが過分である。フィトンチッドが。気分のいい目覚めを味わえる。

 

不便なことは多い。コンビニエンス的な現代社会の在り方からは遠い。ありとあらゆる施設が遠く、利便さからもほど遠く、だから愚痴愚痴と文句を言うも、その口元は笑っている。不便さを愉しむと言おうか。やれ水が出なくなったので直しに行こうとなれば、住人総出でいく。ちょっとしたイベントだ。わいわい言いながら直す。不便が、楽しい。

 

不便でしょうがないが満ち足りている。何もないけれども。友、というか、山奥ニートがいつも誰かしらそばにいて、いつでも語りあかせる。どうでもいいことを。どうでもいいことを話せる相手がいつでもいるってことが特別なことだと、いつ気づけただろう――。

 

一緒に食事をとる相手が絶えず居る。これも当たり前なようで、当たり前じゃないことだ。

 

 

なんという贅沢か。自然に囲まれ、人に囲まれ、何も無いが満ち足りている。贅沢の極みではなかろうか。お金なんていくらあったって、あの生活に比べればどうとうことはなかろう。高級車や高級腕時計が何をしてくれるというのか。ヒグラシ一匹にも劣ろう。高級車一台用意するくらいなら、山奥ニート一人と語り合った方がよほど有意義ではなかろうか。金をいくら積み上げても到達できない贅沢を、格安で手に入れてしまっている。

 

思えば人里で、「朝日がまぶしくて目が覚める」ということがどれだけあったろう。いつも目覚まし時計やアラームに叩き起こされる。時間に追われ、せかせかして、せわしない。こころを殺しながら生きている。山奥ではそれがない。まず時間の制約もなく、自然光や自然の音によって目覚めさせられ、ぼんやりとしたあと二度寝してもいい。そうでなくともどうせやらねばならないことなどない。だらだらとリビングにたどりついて、そこにいた山奥ニートとざれて遊び、どうでもいい話をして、無駄に時間を浪費する。時間を湯水のように浪費することこそが最大の贅沢ではないか。それも人間なら誰かしらはいるのだ。孤独ではない。孤独に時間を浪費するのは苦痛だが、誰かと過ごす時間はただただ楽しい。自分ではない、他人が存在するのに、あんなに自由でいられる空間こそ、贅沢な空間と呼称すべきではなかろうか。

 

大理石の床、金で縁どられた柱。そこに何の価値があろう。それで自分はせわしなく時間に追われて死にかけているのではバカバカしい。孤独にさいなまれるのでは意味がない。金だけ積み上げても贅沢には手が届かないものだ。ただ時間を自由に使い、人と触れ合い、そして自然に囲まれている。あれぞ贅沢中の贅沢。そうは思わないか?

 

 

 

だから私は老後だというのだ。

 

本来、あれは仕事をしつくした後で、するべき生活に思う。汗も涙も血も流さずに、あんな贅沢な生活を味わってよいものだろうか。何となしに心苦しく思う。人里で必死に働いている人たちに、ちょっと申し訳ないように思う。

 

人間、一度贅沢を覚えたら、それよりも質の低い生活には戻れないという。

 

いずれ私はニートを辞めようと思っている。できれば近いうちに。できなくとも数年のうちに。「まだ若い」と言えなくなる前に。それは正しい選択であると思うけど、ただずっとあの生活のままでいたいという欲求は確かにある。少し、怖い。甘くかわいらしい砂糖菓子のごとき誘惑が。ちろちろと蛇の舌が獲物をなぶるがごとく、我が身をなでる。

 

男として生を受けた以上、社会に出て戦うべきだと親からは習った。一人前の男というのは、社会に対してその責任を負い、仕事においてその責任を負い、家族を作ってその責任を負うものだ。そうだと思う。今でもそう思う。だから私はずっと山奥ニートしているわけにはいかないと思う。ただあの誘惑は耐え難いものがある。悪魔的である。

 

山奥の生活で、「金なんて幾らあっても大して満たされはしまい」ということを骨身にしみておきながら、いずれ私は金を稼ぐために戦場に身を投じなければならない。苦痛である。とはいえいつまでも世捨て人でいるわけにはいかない。郷里の父母にも恩を受けるだけ受けて、何も返せてはいないし、いつまでも無責任な子供のままではいられない。それはわかっている。わかっているんだ……!

 

山奥を離れて客観視することで見えたことといえば、こういう所だろう。あれは凄まじい贅沢だ。本来、社会から背を向けた若人の享受してよいものなのかどうか。あんな贅沢にどっぷりと首まで浸かってしまっては……戻れなくならないだろうか。人間の生活に。

 

仙界は美しい。でも人間を捨てるにはまだ早かろう。人間としての責を全うしてから辿り着くべき場ではなかろうか? 様々なプロセスをすっ飛ばしてそこに到達してしまった山奥ニートは、ある種最も効率的であり、合理主義的だと言えよう。あの不便な山奥で合理とは。だが人里の不合理さはその利便さを打ち消しなお余る勢いであって、であれば真の合理主義者とは山奥に棲むものなのだろう。

 

仙人は世俗のしがらみから解き放たれている。故に迷いはない。故に俗気が抜け、人ならぬ者と化している。共生舎には仙人が何人かいる。私はまだ世俗に執着する。よって仙人にはほど遠い。しかし深山に棲まう以上は人ですらない。おそらくは化け物とでも呼称すべきモノである。

 

仙人は苦しみから解き放たれている存在であるが、化け物は自業自得めいた責めの炎に灼かれて苦しみあえぐ。辛い。いっそ割り切ってしまえたらどれだけ楽だろうか。でもそんなわけにはいくまい。他の山奥ニートならともかく、私は。

 

「蓬莱の玉の枝」とはよく言ったものだと思う。これは、竹取物語かぐや姫が貴公子に出した難題の一つだ。蓬莱とは仙人が棲む伝説上の島である。そこにあるという宝石で飾られた枝をとってこいと。しかし仙人の棲む島に宝石の枝とはおかしな話ではないか。世俗から離れた仙人にとって宝石などいかほどの価値を持つものか? ただの自然、ただの人、それこそが宝石に勝る贅沢であって、それこそが「蓬莱の玉の枝」の正体だったのではなかろうか。しかしそれの価値は仙人にしかわからない。人里に住まうただの人にとって、自然は自然で、人は人だ。それの価値を理解できず、結果、存在しない蓬莱島を目指し、すぐそばにある「蓬莱の玉の枝」を手に入れることはかなわない――。禅問答のごとき解であるが、実際に山に棲んでいた私にはこれこそが正当解に思える。

 

自分はその「蓬莱の玉の枝」を手にしておきながら、また手放さねばならないのだ。苦痛である。

 

 

ひぐらしや一時夜と化す深山                  秋雷

 

仕事をして、家族を作って。そんな当たり前こそが幸福なのだと、何度と自分に言い聞かせておかねば、あの山奥の魔手にからめとられて動けなくなる。あれこそ魔物だ。あの砂糖で作ったがごとき蠱惑の場所に、根付いてしまったが最後、もはや抜けられなくなる。「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などよく言ったものだ。たいして労せず贅沢を経験してしまっては、戻れなくなってしまうかもしれないのだ。戦って勝ったものだけが味わうべきものなのだろう。

 

山奥は、人間性すら捨て去った合理主義者たる仙人と、自らの業によって自らを灼く化け物のみが棲み、人間の姿はとんとない。山奥は人の棲む空間ではない。ここは人を人ならぬモノへ変えてしまう。そして私は化け物の側だ。


苦痛である。