私が思うに小説という奴は

何を書くかということより、書くことで何を伝えたいのかってことが大事なんじゃないのかなと思う。

 

SF小説ではよく「人間とは何か」という問いが見られる。機械・人工知能・ロボットと対比される形で、「人」を考えさせられるような物語を多く見る。

 

人間って何だろう。人の属性は善であるとか悪であるとか。人は考える葦だとか。人は闘争するものだとか。人らしさとは理性であるとか。優しさだとか。いろんな哲学者や宗教者が人間って何だろうってテーマを考えている。きっと全部当たっていて、全部外れているんだと思う。

 

「人間って何?」っていう問いは、「おまえは何?」って問いに等しいのではないかな。自分自身の存在を問う。「我思う故に我あり」なんて言うけど、あったからなんだ。自分がナニモノなのかよくわかっていないのに、ただ存在していることだけハッキリさせたってしょうがないじゃないか。

 

自分の中で「人間って何?」って問いには、自分なりの答えを用意してある。それはあえてここでは書かない。

 

だからさ、小説を書くときにその自分なりの答えって奴を十分に有効活用するべきなんだよ。自分は無為に哲学っぽいことを考えるのが好きなくせして、小説に転用しないからバカなんだよ。そこ一番転用すべきだろ。

 

「人間とは○○である」という自分の出した答えを作品で表す。それが正しいかどうかは読者が判断することだろうが、その是非に関わらず、読者の心に対してシコリというか、クサビというか。そういうものを打ち込めるんだろう。

「私が考えるに人間は○○である。君はどう思う?」というのを物語に偽装させて問うのが小説のあるべき姿ではなかろうか。私はそう思う。私の作風的にはエンタメ書きであって純文学とか欠片も興味ないけど、だからこそ思う。

 

考える事ってのはエンターテイメントだよ。大衆こそ思考すべき。

 

人の無き夜のプールを想起せり            秋雷

 

ちょっとやる気出てきたかな。人里に身体が馴染んだ感ある